「約束」-20
「よかった…、やっぱりここにいたんだね。」
「……え?!」
「こんなところにずっといて熱中症にでもなったらどうするの?」
「………。」
蒼が本城にヒントをもらって向かった先はやはりあの場所だった。
夏草が生い茂る小高い丘に黙って座っている葵の後ろ姿を見つけた時には、安堵の溜め息が漏れた。
胸を撫で下ろしてすぐに葵に近付くと、当の本人は驚いた表情を浮かべている。
どうしてここが、そう言いたげな表情だった。
持っていた煙草の灰と火種が一緒になってぽとりと落ちそうになる。
「葵ちゃん、ひどいよ…。」
「悪ぃ、すっげぇひどいことしたよな…。あんな無理矢理…。」
「違うよ。そうじゃないよ。」
「え…?」
昨晩の行為の最中から正気に戻ったのか、葵は憔悴しきった様子だった。
蒼にした行為を悔やんで、反省しているせいで、いつもの葵の迫力がない。
だけど蒼が責めたいのは昨晩の強姦まがいの行為のことではなかった。
それに無理矢理だとか何だとか言っても、結局は自分もして欲しくて最終的には気持ちよくなってしまったのだから、蒼にしてみれば強姦とも言えないのだった。
「そうじゃなくて、いなくなったことだよ。」
「あぁ…。」
素っ気無い返事の中に、葵の気まずさや照れが窺える。
そこでごめん、と素直に言わないところがまた好きで、なんだか悔しくなる。
「僕は…っ、また一人になるかと…っ。」
「お前、男のくせによく泣くよなぁ。」
堪えていた涙が蒼の頬を伝って、言葉が詰まる。
蒼の泣き顔を見た葵はようやく緊張の糸を緩めて、視線をこちらに向けるとふっと微笑った。
「ひどい…っ、葵ちゃ…のせいじゃん…っ!こんなバカみたいに泣いて…っ。」
ボロボロと涙を零して喚く蒼を、葵は困った顔で見ていた。
何も言わずに、見守るように。
それはこれからはどうもしてやれない、自分で何とかしろと言われているようで余計悲しくな
った。
そんな風に泣いても俺は傍にいないから何も出来ないのだと。
「また…、学校やめていなくなっちゃうの…?」
予想はしていたけれど、葵自身の言葉を聞くまでは信じないことにしていた。
はっきり言われて受け入れられるかどうかは別として、本人から聞かない限りは真実とは言えないのだから。
「…そういうことになるな。」
しかし実際告げられてみると、現実というものは厳しく悲しいものだと思った。
身体中が心臓になったみたいに動悸のような激しい音が止まらなくて、そこを鋭い何かで突き刺されているみたいだった。
一度は止まりそうになった涙も、再び溢れ出しては滝のように流れてしまう。
もう泣き落としでも何でもいいから願いを聞いて欲しいと、卑怯なことまで考えた。
格好悪いとか情けないとかもどうでもよくなってしまったのだ。
「やだ…っ、嫌だよ…っ、行かないで…っ、行っちゃやだ…っ。」
お願いだから、傍にいて欲しい。
一人にしないで欲しい。
いなくならないなら、好きになってなんて贅沢は言わない。
本音を言えば好きになって欲しいけれど、いなくなられたら全部がお終いだ。
一緒にいればもしかしたら好きになってくれる日が来るかもしれない。
この後に及んでまだ葵の心を望む自分が、醜いとも思った。
「ごめん。でもこのままじゃお前が…。」
俯いた葵が、蒼の身体をそっと抱き寄せる。
それは昨晩あんなことをした腕と同じものとは思えないほど、優しい感触だった。
「俺はダメなんだ。このままだとまたああいうことをするかもしれない。」
「僕はそれでも…っ。」
「それと…あの従兄の話しただろ?また色々動いてるみてぇなんだよ。俺を陥れようとしてな。」
「それは…、本城さんから聞いたの…?」
「あぁ。それでお前の存在があいつらにバレたらって考えると…。矛先がお前に向けられたらって考えると…。」
「葵ちゃん…。」
葵はよほど悩んだのだろう。
いや、もしかしたらまだ迷っているのかもしれない。
頭を抱える表情が苦悩に満ちていて、それは今までに見たことのない葵だった。
それほどまでに悩む理由が何なのか、蒼はまだわかっていなかった。
「俺が何かされるのはまだいい。だけどお前が何かされたら…俺は一生悔やむことになる。」
「僕は大丈…。」
「俺が大丈夫じゃねぇんだよ。お前が傷つくところなんて見たくねぇ。傷付くのは嫌だ…あんなことしておいてすっげぇ矛盾してるけどな。」
「え…、な、なんで…?」
蒼には葵の言っていることがよくわからなかった。
葵が言う通り、あんなことをしておいて、とも少しだけ思ってしまった。
だけど問題なのはどうして自分が傷付くのを見たくないと言ったのか。
その理由が葵が悩んでいた理由と同じだと言うことをまったく気付いていなかったのだ。
「なんでってお前…。」
「どうして僕が傷付くのを見たくないなんて…。」
「お前それわざとか?昨日の仕返しでもしてんのかよ?それとも単なるバカか鈍感か?」
「ちょ…、何それ?ひどい…。」
さっきまでの葵はどこへ行ってしまったのか、いつもの葵に戻っていた。
口が悪くて、意地悪なことばかり言う、蒼がよく知っている葵だ。
ひどいことを言われているのに、蒼はなんだか嬉しくなってしまった。
またこんな風に話せるとは思ってもいなかったから。
だからもうそれで十分だと思っていたのだけれど…。
「好きだから。…お前が好きだから。」
葵の口から出たものは、驚愕の言葉だった。
それは蒼がずっと望んでいた言葉。
ずっと言って欲しかった言葉。
そしてずっと手に入れられなかったもの。
「う…そ……。」
「お…まえ…っ、ムカつく…嘘でこんなこと言うと思うか普通?」
「でも…。」
「つぅか気付いてるもんだと思ってたのによ…、お前ホントにムカつく。」
「でも避けたりしてたのに…僕はてっきり嫌われてるかと思って…。」
「だからそれは…。あぁもうすげぇムカつく!はっきり言えるわけねぇだろこの俺がよ!」
ムカつくムカつく、と繰り返す葵は、いつもより幼く見えた。
おまけに伝わらないとわかると怒りを蒼に向けたりして。
まるで自分の思う通りにいかなくて不貞腐れている子供みたいだ。
それなのに抱き締めた腕だけは離さないのが、矛盾していて可笑しい。
ほんのり色づく頬が、より一層子供っぽく思わせて可愛いと思ってしまった。
勿論葵に向かって言ったら怒るのは目に見えているから言わないけれど。
そういう表情が出来るなら大丈夫、葵はダメなんかじゃない。
自分だけにはわかる、少し先の未来の葵の姿を思い浮かべた。
「好きだ…、好きだ、蒼。お前のことが好きなんだ。」
急に真剣な顔になった葵が、より一層蒼を強く抱き締める。
体温から心臓の音、血液の流れまでが一つになるみたいに心地良い。
このままずっと、こうしていられたらいいのに。
叶わない願いと叶った思いの中でどうしていいのかわからなくて、蒼は大粒の涙を零した。
「初めて僕の名前呼んでくれたね…。」
「二回目なんだけどな。」
「え…?」
「いや、なんでもねぇ。」
目を閉じると、葵がくすりと笑った声がした。
濡れた瞼や頬を葵の舌先が丁寧に舐め取って、それが唇に触れるのを待つ。
程なくして唇に到達したのがわかると、キスを繰り返した。
激しくなっていくキスの中で、次第に夏草が近付いて、その匂いが強くなっていくのがわかった。
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