「約束」-19
本城の部屋から戻り、一人になった蒼は自分達の部屋の中をぐるりと見回した。
数ヶ月前、ここが自分の部屋だと案内されて入った部屋。
夜の闇の中で葵の髪がキラキラ輝いていて、それを取り巻く煙草の煙が幻想的で綺麗だった。
あの日初めて会った葵にキスをされてから、蒼の心の中にはずっと葵がいた。
気になって仕方なくて、いつの間にか好きになってしまっていた。
その思いが通じて、身体を繋げて、すべてがいい方向に向かって行くと思っていた。
寂しかった心も葵が埋めてくれる。
これからは楽しい日々が待っているものだと。
いつから二人はおかしくなってしまったのだろう。
期待を裏切ってまったく逆の方向へ行ってしまったのはどうしてだろう。
葵が従兄にあんなことをされていなかったら?
そうしたら上手くいっていたと言うのだろうか。
それならば葵だけでなく、自分もその従兄を恨まなければならない。
だけどそんなのは逆恨みというやつで、本当に葵が自分を必要としてくれたのならこんなことにはならなかったはずだ。
「葵ちゃん…。」
自分だけが呼んでいる呼び名。
『ダメっていうか…、勝手にしろ』
そう言って少し照れたような葵の表情を思い出す。
男にちゃん付け、しかも葵ほどの男らしい男にちゃん付けしたことが今になって可笑しくなって来てしまった。
「葵ちゃん…っ。」
可笑しくて、涙まで溢れる。
いつも葵が寝ているベッドに頭を埋めると、まだ葵の匂いや温もりが残っていて、尚更泣けて来てしまう。
ここで何度もしたセックスの感覚さえも、身体に蘇るみたいだ。
「う…、葵ちゃ…、う…っ。」
ただ涙を流すだけだったものは嗚咽に変わり、蒼はベッドから離れることが出来なくなった。
痛いのは、昨日散々弄ばれた身体なんかじゃない。
痛いのは…。
「う…っ、うぅ…っ。いた…っ。」
しゃくり上げながら、胸の辺りを自分の掌で撫でる。
早くこの痛みを葵の力で何とかして欲しい。
自分の手なんかじゃ癒えないこの痛みを、葵に撫でて欲しい。
一度泣き始めると止まらなくなってしまって、蒼は何度も胸に触れては泣き続けた。
「殿村くん?」
「あ…、本城さん…。」
数時間後、蒼は授業を抜け出して学校の玄関にいた。
どこかで見ていたかのように、後ろから本城が声を掛けて来る。
「どこ行くの?まだ授業中だよね?」
「それは…。」
もともと授業なんかに出ても、集中出来るわけがないと思っていた。
それでも何とか出たものの、考えるのは葵のことばかりだった。
それならば葵を探してみるべきだと思ったのだ。
どこにいるのか見当も付かないけれど、自分が納得するまで探そうと。
自分が納得出来るまで葵を追い掛けたいと思った。
「また…、葵?」
「それは……、はい、そうです。」
「まだ帰ってないんだ?」
「はい…。」
少し引っ掛かるような本城の言い回しに負けてはいけない。
ここで負けたら、諦めたらこの先の自分の人生までもがダメになると思った。
「どこにいるかわかるの?」
「いえ…わかりません。本城さんこそ本当に知らないんですか?」
「突っ掛かるねぇ、今日は。」
「そんなこと…。すみません…。」
「いや、別にいいけど。」
「すみません…。」
そう言う本城だって十分突っ掛かっているのに。
それはやっぱり葵に対して特別な感情を持っているからだ。
だけど本城の気持ちに気付いたからと言って、ここでやめるわけにはいかない。
本城に言われて引き下がるわけにはいかなかった。
諦めるのも、やめるのも、葵に会ってから。
葵の気持ちを確かめてからにすると決めたのだ。
「やっぱりそんなに葵が好きなんだ?」
「はい…、本城さんには…悪いですけど。」
「別に悪くはないけど。」
「じゃあどうしてそんなに……っ、本城さん…っ!」
どうして僕をそんなに止めるんですか?
葵ちゃんと僕を引き裂こうとするんですか?
聞きたいことは、責めたいことはたくさんあった。
しかし今朝のように本城に真剣に見つめられて腕を掴まれたりしたら、何も言えなくなってしまう。
「俺なら君を弄んだりしないよ…?」
「何言って…っ、離して下さ…っ、あ…!」
本城が妖しく囁きながら、シャツの間に手を滑り込ませる。
ここが学校の玄関だということを忘れてしまうぐらい、目の前がクラクラする。
その囁きや手の動きが葵に似ていて、身を任せてしまいそうになるのだ。
「殿村くん、葵なんかやめなよ…ね?」
「や…っ、本城さ…っ、やだっ、やめ…っ、やめて下さいっ!!」
物凄い音と共に、本城の身体が数メートル先に吹っ飛んだ。
このままいったらそれこそ本城に身を委ねてしまいそうだった。
自分の目を覚ますために本城を突き飛ばすなんて、本城にとっては気の毒だったが。
「いたた…、びっくりするなぁ。」
「す、すみません…!でも本城さんが…。」
「君はやっぱり強いと思うよ?」
「すみません…。」
そんな笑顔で嫌味を言われて、蒼はどう反応していいのかわからなかった。
今朝と同じように自分のことを強いと言う本城は、苦笑いを通り越して呆れているのがわかったから。
吹っ飛んだ瞬間に打ったのか、腰の辺りを押さえて本城は立ち上がる。
「君は本当に知らないの?葵がどこに行ったのか。」
「はい…、わからないです。」
「そんなんでどうやって探すの?」
「それは…、手当たり次第というか…。」
自分でも具体的には決めていなかったから困ってしまった。
実際外へ出たところでどこから探していいのかもわからない。
この街に慣れて来たからと言ってもまだ知らない場所だってある。
せめて行き先に思い当たるところがあればいいのに…。
「どこか行きそうな場所に心当たりはないの?」
「ないです…。」
「葵とよく行ったところとか…、葵がよく行くところとか聞いてない?」
「それはないで……あ!」
どうして今まで気付かなかったのだろう。
『俺の一番好きな場所なんだよ。』
『誰も連れて来たことなんかねぇけどな。』
初めて身体を繋げたあの夜、自分を慰めるために連れて行ってくれた場所。
都会の真ん中にある小高い丘の景色を、蒼は今頃になって思い出した。
「何か思い出したの?」
「はい…、本城さん…、ありがとうございます!」
「え?俺は何もしてないよ?」
「いえ…、でもありがとうございます。」
葵の場所を教えてくれて。
葵の場所へ導いてくれて。
それはあの時この寮に入った時から始まっていたのだ。
本城が葵と自分を出会わせて、繋げてくれたのかもしれない。
そう思うと感謝を言わずにはいられなかった。
「仕方ないなぁ…。君には負けたよ。」
「えっ?」
「葵のこと、よろしくね。」
「本城さん…。」
それは葵に対する思いの表れでもあった。
従弟で、そして恋する相手への思い。
それ以上何も言うこともなく去って行く本城の後ろ姿を、穏やかで少し切ない気持ちで見送る。
あとはもう、葵目指して飛び出すだけだった。
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