「約束」-15





「あれ…?」

気が付くと、もうすっかり見慣れた天井がある。
壁と同じ、柔らかなクリーム色の天井。


「あ、気が付いた?」
「え…?本城さん…?」

本城を色に喩えるなら、きっとこの壁と天井のような色だと思ったことがある。
柔らかくて優しい、包んでくれるような色。
それは綺麗だけれど、本当の姿が隠れてしまっているような色でもある。
見たくないものや見せたくないもの、すべてを覆ってしまえる色なのだと。


「大丈夫?あ、急に起きない方がいいよ。」
「…ちゃんは……?」

どうやらあの後、蒼はショックで倒れてしまったらしい。
倒れていたのは葵だったのに、まったくもって可笑しな話だ。
まだふらつく頭で起き上がろうとしたのは、その葵のことが気になったからだ。


「葵ちゃんは…っ?」
「あぁ、大丈夫だよ、軽い脳震盪だから。そんなに心配しなくても大丈夫。」

蒼は額を押さえながら何とか起き上がって、隣のベッドを見る。
本城が言う通り、葵は穏やかな顔で眠っていて、きちんと息もしているから無事なようだった。
死なないで…、その祈りが通じて本当によかったと思う。


「よかった…、よかった…。」

安堵感と喜びに、蒼の瞼に思わず涙が滲む。
自分のせいでこんな目に遭わせてしまったという罪悪感ももちろんだ。
あんなことで怒って苛々した自分がすべて悪いのだと。
葵が本当にこの世からもいなくなってしまうぐらいなら、 もう一生会えなくなるぐらいなら…。
気持ちなんか通じ合えなくていい、片思いでも構わない。
その裏側にはまだ期待があるのは今は否めないけれど、きっといつか忘れられる。
死んでしまった方がきっと忘れられなくて、一生後悔することになっていた。
この恋の諦めを決意して、蒼はぎゅっと目を閉じた。


「じゃあ俺は君が気が付いたって寮監に言って来るね。」
「あ…、はい、すみませんでした。」

本城は蒼の気持ちを悟ったかのように、微かに笑いながら静かに部屋を出て行く。
眠る葵の額には真っ白な包帯が巻かれていて、その姿が痛々しかった。
同時に、目を閉じた葵の顔をこんなに近くで見るのは初めてで、見惚れてしまっていた。
長い睫毛がきめ細かい肌にかかって、陰を作っている。
そこに息を吹きかけたら揺れてもっと綺麗だろうと思った。


「あ…。」

ふと枕元を見ると、保険証が開いて置いてある。
きっと本城が誰かが出した後、置きっ放しにした物だろう。
蒼は机の引き出しにでもしまっておこうと思って、何気なくそれを手に取った。


「誕生日、5月なんだ…。」

既に蒼とは出会っていたけれど、もう今年は過ぎてしまっていた。
恋を諦めたら友達として、来年は祝ってやることが出来るだろうか。


「あれ…?」

その生年月日を見て、おかしな点に気がついた。
蒼の誕生日は3月だから、同じ学年ならば葵は前の年に生まれたことになる。
ところが葵が生まれた年は蒼の2年前になっているのだ。
『本当かどうかはわからないんだけど、他校で生徒殴って退学なって次の年うちに入ったらしいんだよ。』
それは本城の話は本当だったということを意味していた。
一年生の時に退学になって、次の年にこの学校を受けた、そのまんまの事実だ。
だから蒼よりは一年上ということで辻褄は合う。

しかし蒼にとっては、葵が年上なのはこの際どうでもよかった。
問題なのは、その後本城が言っていたことだ。
この学校に入って同室になった生徒が退学してしまったという話

『そうじゃなくて、ほら、別の意味で……犯されたって言うのかな…。』
その生徒を犯していたのも本当だったのだろうか…。
確かに初めて会った日に、葵は蒼にキスをして身体に触れて、その後も先を促すようなことをして来た。
そして抱くだけ抱いて拒否をして…。
自分への態度を考えても、それは事実だと言っているようなものだった。
信じたくないと思ってきたものが今明らかになって行くことに、蒼は恐怖を覚えた。


「あれ?もう起きて大丈夫なの?」
「本城さん…。」

早く保険証をどこかへしまわないといけない。
そして見なかったことにすればいい。
見たことは忘れてしまえばいい。
今自分がするべきことがわかっているのに、蒼は突っ立ったまま動けなくなっていた。
帰って来た本城に声を掛けられると、保険証はぱさりと手から滑り落ちてしまった。


「これ…、どういうことなんですか…?」

蒼が視線を床に落とすと、本城もそれに気付いた。
震える手で拾おうとしても出来なくて、代わりに本城が拾ってくれた。


「これ、見ちゃったんだ?」
「やっぱり全部知ってるんでしょう?教えて下さいっ、本城さん!」
「と、殿村くん、落ち着いて!」
「本城さん、葵ちゃんと知り合いなんでしょう?本当はどういう関係なんですかっ?!教えて下さいっ!」

つい先程諦めると決意したのに、蒼はもう忘れてしまっていた。
好きな人のことを知りたくて堪らない自分がここにいる。
掴みかかるような勢いで、本城を責め立てた。


「それはね…、殿村くん…。」

本城は蒼の熱意に負けたのか、深い溜め息を吐いた。
いつもはっきりした口調の本城がどもるのは迷っている証拠だ。


「──あぁ、俺階段から落ちたのか…?」

何度か本城の溜め息が聞こえた後、葵のぼそりと呟く声がした。
その声の方を振り向くと、ゆっくりと葵の瞼が開いていく。
キラキラと輝く金色の髪の隙間に手を当てながら。


「葵ちゃんっ、ごめんね、ごめんね…!」

本城とのことはひとまず置いて、蒼はベッドの脇に跪いた。
一度は堪えていた涙がまた溢れ出して、葵の手をぎゅっと握る。


「ぶっ倒れたのか…、チッ…カッコ悪ぃな…。」
「ごめんね…、ごめんなさい、ごめんなさい…。」

葵は不貞腐れて、横を向きながら舌打ちをした。
握った手は蒼の涙でみるみるうちに濡れてしまう。


「あぁ、気にすんなこれぐらい。」
「気にすんなって…、死んじゃうかと思ったんだよ…?」
「はぁ?死ぬわけねぇだろ…。」
「でも…っ。」

久し振りの葵の文句だった。
そうやって毒づかれたりからかわれたりする方がいい。
あんな気まずい思いをするよりなら。
きっと普通の友達になれるはずだ。
本当のことを、本当の葵の話を聞いた後に。


「じゃあ俺はもう部屋に戻るよ、寮長の仕事もあるしね。」
「本城さん、本当にありがとうございます。すみませんでした。」
「ううん、いいんだよ。…あぁそれと葵、ちゃんと話しなよ?」
「…わかってるよ。」

にっこりと笑って、本城は部屋を後にする。
今度は葵、というごく親しい呼び方だった。
もう誤魔化す必要がないと思ったのだろう。
ちゃんと話しなよ、それは葵に蒼の思いを伝えるかのようだった。
葵も素直に小さく返事をして、傍にいる蒼をじっと見つめた。




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