「約束」-14





「どうしたんだ?」

それから数日後の夕飯時だった。
蒼の手が、箸を口元に運ぶ途中で止まってしまった。
向かいの席に座っていた葵が不思議そうに訊ねる。


「うん、お腹空いてないから…もういいや。ご馳走様。」

当然それは言い訳だった。
腹が空かないのは本当のことだけれど、その原因は明白だった。
箸を置いて席を立とうとする蒼を、葵は訝しげに見つめる。


「お前最近ずっとじゃねぇか。」
「うん、でも本当にお腹空いてないんだ。」
「ちゃんと食わねぇとその背、伸びねぇぞ。」
「いい、いらない。」

冗談めいたことを言っているのに、葵の口調と視線は真面目だ。
どうせなら笑ってバカにするみたいに言えばいいのに…。
そしたらひどい、だとか言ってこちらも冗談で返せるのに。


「人が心配してんのに。」

心配なんかいらない。
心配するぐらいなら好きになって欲しい。
八つ当たりだとわかっていても、滅茶苦茶な思考だとわかっていても、蒼の脳裏には捻くれた考えしか浮かばなかった。
このところの葵の態度には苛々して仕方がなかったから。
それが今の発言で頂点に達してしまった。


「心配なんかしなくていいよっ!」
「え…。」
「心配する気もないくせにしなくていいって言ってるの!」
「ちょ…。」

自分でも驚いてしまった。
こんな荒げた声を上げたこともなかったし、自分がこんなに声が出るとも思わなかったのだ。
食堂中に響き渡る蒼のその声に、他の生徒までもがざわついていた。


「ぼ、僕…、部屋戻ってるから。」
「おい、ちょっと…!」

これ以上ここにいたら何を言うかわからない。
その先を恐れて、蒼は席を立って食堂を出て行く。
葵が止めるのも聞かずに。
ただこれ以上壊れて行くのが嫌だったから。

もう嫌だ。
もう耐えられない。
たった一人の人間に振り回されて、落ち込んで、惨めな思いをして。
勝手に落ち込んでいるだけと言われればそうかもしれない。
だけどそれなら抱いて欲しくなんかなかった。
あの時断ってくれればよかったのに、何度も抱くからいけないのだ。
期待なんて持たせないで欲しかった。
他に行く場所がなくて、これでは蛇の生殺しと一緒だ。
それならいっそのこと葵がどこかへ行ってしまえばいいのに。
顔も合わすことも、心が揺さ振られることも、悲しみを与えられることもないように。
どこかへ行ってくれたら忘れられるかもしれないのに。


「ちょっと待てよ!」
「追い掛けて来ないでよ!」

そうやって気のない振りをして気のある態度を取るから。
だから駄目なんだ、だから止められなくなるんだ。


「来ないでって…、あ……!」
「おい…っ!」

追い掛けて来ないで。
もう僕のことを放っておいて。

僕の目の前に現れないで。
僕の前からいなくなって───。


「え……!」

その時何が起こったのか、蒼には一瞬わからなかった。
後ろを振り向いて葵に反発していたのが階段で、足元から崩れて行きそうになったまではわかる。
まるで自分の心みたいにぐらりと揺れて、どこか深くて暗い谷底へ落ちて行くような。


「あ…、葵ちゃ…?」

我に返った時には、蒼は階段の踊り場に伏せていた。
顔と胸の辺りを床に強くぶつけた衝撃で、そこがズキズキと痛む。
直前にいたのはちょうど踊り場の数段前で、葵に背中を突き飛ばされたのだ。
顔を上げて下を見下ろすと、葵が一番下に倒れている。


「あお、あ…、葵ちゃん…?」

蒼は震える足で、階段を一歩ずつ下りて行く。
横たわる葵の肩を揺らしてみたけれど、返事がない。
瞳を閉じて、眠っているみたいな顔の横に、鮮血が流れ出している。


「嘘…っ!」

血の気が引いて、顔が真っ青になるのが自分でもわかった。
出血しているのは葵のはずなのに、蒼の体内から血が抜かれたような感覚だった。


「やだよ…、死んじゃやだ…。」

蒼はボロボロと涙を零しながら、何度も葵の肩を揺さ振る。
近く
にいた生徒達が大きな音を聞きつけ、こちらへ駆け寄って来る足音が聞こえる。
耳の中でその音が響いているのに、まるで夢を見ているみたいだった。
それぐらい現実味がなくて…、いや、現実だと思いたくなかったのだろう。


「やだよ…、もうやだ…。」

さっき胸の中であんなことを考えてしまったから。
葵がいなくなればいい、と。
本当にいなくなったら、生きていけなくなるのはわかっていたのに。
あんなこと考えなければよかった。
もう置いていかれるのは嫌なのに…。
蒼は縋り付くように泣きながら、意識のない葵の身体を抱き締めた。





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