「約束」-16
本城が去って、いつものように二人きりの部屋になった。
どちらから、そして何から口にすればいいのかわからない。
お互い何も言わないまま、張り詰めた空気が暫くの間流れていた。
「あ、あのね…、それ…。それ、見ちゃったんだ…。」
「あぁ…。」
葵の強い視線とこの空気に耐えられなくなった蒼が先に口を開いた。
本城が拾って、再びベッドの上に載せられた保険証を指差す。
葵は相変わらず素っ気無い返事で、その先を促すように待っているようだった。
「本城さん…、前言ってたんだ、その、葵ちゃんは前に別の学校退学してるって…。」
「あぁ…。」
繰り返される同じ返事は、その通りだということでいいのだろう。
それなら全部、話して欲しい。
本城がこの部屋を出て行く時に言ったように、「ちゃんと」だ。
たとえ想像出来ないような恐いことでも、蒼は受け止めようと思っていた。
葵の隠された過去も素顔も、この心で受け止めたいと。
「俺、親いねぇんだよ、お前んちと同じだな。」
「え…。そ、そうなの…?ご、ごめん僕何も知らなくて…。」
「いや、俺が言わなかったからだろ。」
「そ、そうだけど…。」
「つぅかいねぇってのもまた違うか…。」
「葵ちゃん…。」
葵はブツブツと呟きながら頭を押さえて、起き上がって、話し始めた。
その表情はとても落ち着いていて、辛い過去も全部乗り越えて来たのだと窺える。
それからこの先の未来もないのだと、諦めているような気もした。
「俺の父親が最低な奴で───…。」
葵の父親は色々と、特に女性にだらしのない男だった。
結婚してからも遊び歩いて、おそらくどこか他に子供もいるようだった。
それがどこにだとか誰のだとか、何人いるかだとかもわからないぐらいだらしがなかった。
そして葵の叔父、つまりは自分の弟の妻、葵から見て叔母にまで手を出した。
無理矢理犯された叔母は、その後も何度か父親とセックスをした。
叔父にばらすと、脅しては何も言えない叔母を何度も犯したのだ。
もちろん避妊なんてするわけもなく、叔母は妊娠してしまった。
「まぁそれが俺なんだけど。」
「え…。」
「俺の母親も知らない振りしてたみてぇなんだよな、俺が小さい頃は。」
「知らない振りなんか出来るわけ…。」
父親が他で作った子供を自分で育てなければいけないのは、どんなに辛かっただろう。
それでも小さい葵には罪はないのだと、母親は葵を育てた。
しかし成長するにつれてその顔が自分に似ていないのを目の当たりにしていくと、堪らなくなってしまった。
似ていないだけならよかった、叔母そっくりになって来たのだ。
葵が中学に上がろうかというある日、とうとう母は家を飛び出してしまって、彼女は今もどこにいるのかわからない。
「そのクソみてぇな父親も俺が中学生の時急死しやがった。」
「そっか…、辛かったんだね…。」
蒼はありきたりの言葉しか言うことが出来なかった。
葵の過去を知って、何を言っていいのかわからなかった。
そして自分ばかりが一人ぼっちで可哀想な子だと思い込んでいたのが恥ずかしくなってしまった。
「仕方ねぇよ、罰が当たって死んだんだろ。」
「そんな…!」
「でも死んだ奴に罰なんか当たったって痛くも痒くもねぇんだよ。」
「え…?どういう意味…?」
その罰は、生きて残っている葵に向けられた。
叔父は知らない振りをして、葵に近付いて来ると、一人になった葵を引き取ると言い出した。
まだ葵は自分のことを知らなくて、親切なその叔父一家に甘えることにしたのだ。
既に叔母は他界していたけれど、まさかそれが自分の父親のせいだとは思ってもいなかった。
だからその家で罰が待っていることなんか知るわけなんかなかった。
「そこの息子…、従兄なんだけど、事実上は俺と異父兄弟って奴…。」
「うん…。」
「俺が生まれる一年前に生まれてた奴がいて…、そいつにつまりはその…。」
「うん…、うん…。」
言い辛そうにしている葵の目を、蒼はじっと見つめた。
何でもいいよ、全部話して欲しい、そう訴えるような強い視線で。
「ずっと犯られてた。」
「う、嘘…!」
「嘘じゃねぇよ、お前が好きだからって言うから。あの時は毎晩のようにセックスに溺れたな…。」
「そんな…、でもそれって罰っていうのとはちょっと違うんじゃ…。」
「途中まではな。お前のことは俺が守るからって、だからこのことは誰にも言うなって、二人だけの秘密だってな。俺もバカだったんだな。」
「葵ちゃん…。」
その言葉を、葵は信じていたんだろう。
強い瞳の奥に潜んでいる情熱は、その時の悲しみのせいだったのだ。
寂しくて、誰かに傍にいて欲しくて、そして抱いてくれたその人間のことを思っていた過去のことを思い出して。
「全部嘘だってわかった時はさすがにショックだったけどな。」
ある晩いつものように身体を重ねていた二人の部屋に、叔父が急に入って来た。
普段は鍵をかけていたのに、その時はかかっていなかったのは今思えばわざとだったのだろう
。
問い詰められた従兄は、葵に誘惑されて仕方なくやったと言った。
一度したら皆にばらすと脅されて、それで今までし続けて来た。
それは母親を誘惑したこいつの親父と一緒だと罵った。
葵に向けられていたのは憎しみだったのだ。
その時始めて自分が誰の子供なのかも知った。
そして叔父も、その従兄も、復讐のために自分をこの家に呼んだということも。
「そいつぶん殴ってその家飛び出して、学校にもいられなくなったんだ。」
「そんな…。」
「そんで音信不通だった至の…、あぁ、本城のところに駆け込んで…。」
「ま、待って…、どうしてそこで本城さんが…?」
「あぁ、あいつはもう一人いる父親の兄弟の息子で、正真正銘の従兄だ。」
「そ、そうだったの…?!」
兄弟仲の悪かった父親達で、もうあてに出来る人間などいなかった。
あの父親のせいで親戚とは縁遠くなってしまっていたのだ。
最後の賭けのように本城の家を訪ねて事情を知ったその家の人間が救ってくれたのだ。
父親のことは嫌いだが、葵に罪はないと助けてくれた。
この学校に編入させてくれたのも、本城の親だった。
「あいつは…、あいつんとこの親は俺の恩人ってやつだな、大袈裟だけど。」
「そっか…、だから本城さんは全部知ってたんだね…。」
不謹慎だとは思ったけれど、蒼はなんだか悔しくなってしまった。
その時に出会えていたとしても、自分に葵は救えなかっただろう。
本城が葵を助けたことに、嫉妬してしまったのだ。
「だけど同室んなった奴がまさかあの家の、あの従兄の差し金だって気付かなくて…。」
抱いてくれと、君が好きだからと迫った同室の生徒の必死さに、葵は負けてしまった。
そしてたった一度だけセックスをしたその翌日、葵に犯されたとその生徒は騒ぎ出した。
本城がその場を収めてくれて、その時は助かった。
そこまで調べ切れなかったと本城は頭を下げて、葵に謝った。
それ以来本城のことだけは信頼出来るのだと葵は言う。
本城が蒼に色々葵のことを吹き込んで来たのも、蒼が叔父や従兄から差し向けられた人間だと見極めるためだった。
「だから俺は…。」
「え…?」
本城との関係を知って、本城の意図を知って、幾分かすっきりしたような気もする。
すっきりしないのは、葵がどれだけ辛かったのかわからなかったことに対してだ。
果たして自分は葵に対して何が出来るのか。
考え込んで俯いていたら、急の葵の顔が接近してくる。
「約束なんて大嫌いだ。」
「葵ちゃん…?」
襟首を掴んだ葵の顔は、今までに見たことがないものだった。
恨みつらみや今までの過去を全部当たり散らすように蒼を鋭く睨み付ける。
恐い、それしか言いようがない顔だった。
「育てた母親もずっと傍にいるって言ってたくせにいなくなった…。」
「葵ちゃん…、苦しい…っ。」
「従兄だってそうだ、誰にも言うなって約束させられて…。」
「苦しいよ…っ。」
一度離された蒼の身体がベッドに強く叩き付けられる。
上から見下ろす葵の顔はこの世のものとは思えない形相だった。
「なんでお前を抱いてやったかわかっただろ?」
「わ、わかんな…っ。」
「同じなんだよ、あいつらと。好きだなんて嘘ばっかり言いやがって。約束だよ、なんて守れもしねぇくせに言いやがって。」
「ち、違うよ僕は…っ。」
「俺はそういう奴が大っ嫌いなんだよ。」
「い、痛い…っ。」
確かに蒼はそこまで重く考えずに言ったかもしれない。
一緒の大学へ行こうと、約束だよ、と。
しかしそれは守るという前提で言った言葉だ。
好きだということも、本当に心の奥底からの気持ちだったのに。
それが葵にはまったく伝わっていないのが悲しかった。
掴まれた手首よりも、胸の辺りが痛くて涙が滲む。
「お前、言ってたよなぁ?」
「な…に…?」
「とぼけんなよ、セックスしようって言っただろ?」
「あ、葵ちゃ…っ、んん…っ!!」
だったらお望み通り抱いてやる、自嘲の笑みと一緒に、葵の激しいキスに口を塞がれた。
望んでいたことだったのに、応えるキスは涙の味がした。
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