「約束」-13
「葵ちゃん、次物理室だよ。」
「あぁ。」
「行かないの?」
「先行っとけ。」
日頃から楽しく会話していたわけでもない。
それでもそれなりに普通の会話が成り立っていた。
今もこうしてなんとか会話にはなっている。
だけど二人の周りに漂うこの気まずい空気が重い。
これは間違いなく避けられているという事実だ。
「わかった…。」
その悲しい事実を受け入れるように、ぼそりと呟いて蒼は教室を後にした。
こんな風になってしまったのはどうしてだろう。
どうしても何も、原因と言えば一つ、夏休みのあの日からだ。
あの時自分からセックスを誘ってしまったから。
だから呆れられた、それぐらしか思い当たらない。
拒否された時のことを思い出すと、学校から飛び出してどこかへ逃げたくなってしまう。
行く場所なんてどこにもないのに。
しかしふと考えるのは、あの葵の突然の態度の変化だ。
前の日まではそれこそ普通に接してくれていたのが、どうして変わってしまったのか。
蒼としてはそれがずっと引っ掛かっていたのだった。
あの日、寮長である本城が部屋に来てから…。
「……あ。」
そう、本城が部屋にいたことから始まったのだ。
疲れてボケていたなんて誤魔化していたけれど、あれは何かあって部屋に来ていた。
いつも余裕の本城が、不自然極まりないと言っても過言ではなかった。
二人の共通点などは見つからないけれど、それはただ知らないだけかもしれない。
知らないならば、知りたい。
どんなことでも知りたくなるのは好きな人のことだから。
人として生まれたのであれば当然の欲求だ。
「あの、本城さん…、呼んでもらえますか?」
移動教室の短い合間に、蒼は物理室を反れて三年生の教室棟へ向かった。
葵があんな風なら、本城に聞くしかないと思ったのだ。
開いていたドアの近くの生徒に声を掛けると、教室の中心にいた本城をすぐに呼びに行ってくれた。
「あれ殿村くん、どうしたの?珍しいね。」
「あの、ちょっと聞きたいことが…。」
葵と違って、本城の態度がおかしかったのはあの時だけだ。
出会った時と変わらない柔らかな笑みと余裕のある落ち着いた雰囲気。
「寮じゃダメなの?急用?」
「それは───…、はい、急用です。」
本城の言う通り、今でなくともよかったかもしれない。
学校が終わってもどうせ寮に帰れば会うことは出来る。
おまけに寮に帰ってからの方がゆっくりと話せる。
それでも一分一秒でもいいから早く、葵のことが知りたかった。
その欲望に勝つことが出来なかった。
「うーん…、なんかその、場所変えようか?」
蒼の真剣な眼差しを読み取ったのか、本城は廊下へ出るとその向こうを指差した。
黙って頷く蒼を導くように、普段あまり使われていない資料室へ連れて行く。
「それで?聞きたいことっていうのは…。」
どうぞ、と椅子を引かれて、蒼はそろりと腰を下ろした。
続いて本城も隣に腰を下ろすと、一時的に止まっていた会話が再び始まる。
「わかっていると思うんですけど…、あお…、西崎くんのことです。」
「西崎くんがどうかしたの?何かあった?」
見えない本城の胸の内を探るように蒼は口を開く。
本城のこの余裕さの謎が今、解けたような気がした。
ただ単に年上で寮長という役目を担っているからだと思っていた。
しっかりしていて、心の広い頼りになる上級生。
それが最初の頃からの印象だった。
だけどそれは違うのだと気付いた。
その笑みと優しい口調で他人を包み込むのは、自分に対して何も関与させないため。
なんでもこちらから話すことを聞いてくれるけれど、自分のことは話さない。
自分の方へは踏み込むなという余裕だったのだ。
そういう点では、タイプは違えど葵とよく似ている。
「誤魔化さないで下さい。だって何かあったからあの時僕達の部屋にいたんでしょう?」
「うーん、それはね…。」
まるで他人事のような本城に、蒼は苛立ちを覚えて責めるように訊ねる。
さすがの本城も誤魔化し切れなくなったのか、笑みが消えてどもってしまった。
今この崩れた時が責め時だと、逸る気持ちで言葉を続けた。
「あの、もう知ってると思うんですけど、僕は西崎くんとその…、寝ました。」
「君、直球だね…。」
「もちろんそれは好きだからしたことです。好きだから知りたいし、僕のことも好きになって欲しいんです。」
「殿村くんは、正直なんだね。」
本城は驚いたような、呆れたような表情を浮かべていた。
自分でも何てことを他人に話しているのだろうとは思った。
だけど葵に対する思いがどれ程なのか、わかって欲しかったから。
もしかしたらこの時、本城の向こうに葵を見ていたのかもしれない。
「僕は自分を誤魔化すことなんて出来ません。」
挑戦的な目で本城を見つめる。
普段は頼りない蒼の強さに本城はとうとう負けたのか、深い溜め息を洩らした。
「君が言う通り何かあったかもしれないね。」
「本城さん…。」
「でも俺からは言えない、ごめん、言えないんだ。」
「どうしてですか?!」
あったかもしれない、などと言っているが、何かあったと認めたも同然だった。
ごめん、と謝る本城は迷っているようで、辛そうにも見えた。
「あいつの個人的なことだから、だからごめん。」
もうこれ以上は勘弁してくれ。
そう本城が言っている気がした。
その言葉の端々にも、いつもと違う本城が見え隠れしている。
葵のことを「彼」だとか、蒼のことを「君」だとか言う本城が始めて口にした、「あいつ」という親しみが込められた言い方。
「個人的…ですか…。」
「そう。あいつが話そうと思えば話すんじゃないかな。」
その個人的、なところに本城は存在している。
それは自分が決して入ることの出来ない領域。
身体を重ねても入れない、葵の心の中。
本城に恨みなどないのに、この時ばかりは嫉妬で悔しくなってしまった。
「まぁ俺としては、あいつは君に話すと思ってるしね。」
「どうしてそう断言出来るんですか?」
「うーん…、わからない?」
「はっきり言って下さい。」
予鈴が鳴って、本城が椅子から立ち上がる。
このまま資料室を出て行ってしまいそうで、蒼は思わず本城の制服のシャツを掴んだ。
逃げられてかわされるのはもう御免だ。
しかし本城はドアに手を掛けて、掴まれた蒼の手をゆっくりと外した。
「あいつは君のことが好きだからね。」
本城の言葉に蒼は唖然としてしまった。
あいつは君のことが好き?
葵は、自分のことが好き?
耳でも心でも受け止められなくて戸惑っているうちに、蒼の手をするりと抜けるように本城は資料室から去ってしまった。
嘘だ、そんなことがあるわけがない。
本人にも言われたこがない、葵の心。
それならば本当であるという確証はまったくもってない。
だけど本城は何かを知っていて、限りなく葵の近いところにいる。
信じていいものかはわからない。
逆に本当だと言うのならば、言われるまで待っていろと言うのだろうか。
呆けていた蒼を覚ますような高らかな本鈴が鳴り響く。
そういえば移動教室だったということまで忘れてしまっていた。
動揺したまま、蒼は物理室へと走って向かった。
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