「約束」-10





「───…ん………。」

朝の光が部屋の窓から降り注ぐ。
ゆっくりと瞼を開くと、それはたちまち夏の灼けるような太陽の光に変わる。


「あ…さ…?」

この明るさがなければ朝だとはわからなかっただろう。
昨夜記憶が途絶えてからどれぐらいの時間が経っていたのか、一体どうやってこの場に寝ていたのかすら蒼はわからなかったのだ。


「起きたか。」
「あ…、う、うん…。」

蒼が目を覚ましたことに気付いた葵が、窓際から歩み寄って来る。
目を覚ました時に感じたあの眩しさは、太陽のせいだけじゃなかった。
立ち上る白い煙の中で金色に輝く葵の髪がキラキラと反射していて、蒼は思わず目を細めた。


「ほら。」
「あ…ありがと……つっ!」

煙草を咥えながら葵が手に持っていたペットボトルのスポーツドリンクが手渡される。
ひんやりとしたその温度から言って、おそらくつい今しがた冷蔵庫から取り出されたものだろう。
蒼は礼を言いながら受け取って、それを頬にぴたりと当てた。
昨夜の行為で火照った身体を冷ますみたいで気持ちいい。
しかしそのまま起き上がろうとすると、身体に激痛が走って思わず顔を歪めた。


「あぁ…、痛ぇか?痛ぇよな…。」
「うん…、ちょっとだけ…、ちょっとだけね…。」

腰の辺りから足元までじんわりと痺れを帯びているみたいで、身体の奥が時々激しく痛む。
まるで自分の身体が自分の物ではないみたいな感覚だ。
それも特に下半身が誰かに支配されているような、体験したことのない感覚。
これが男同士でセックスをしたという何よりの証拠だった。
本当はちょっと、などと言えるレベルではなかった。
葵が少しでも心配してくれているのが嬉しくなってしまったのだ。
普段は人のことに関心のない人間が自分だけを心配している、自分のことだけを考えている、
そう思うと不謹慎なのに嬉しくて、無理して笑いを浮かべてしまった。


「悪ぃ、お前初めてだったんだよな…。なんかその、悪かったな…。」
「う、ううん…!大丈夫だよ、そんなに謝らないで…。それにその…、してって言ったのは…僕だから。」

続いて吐き出される葵の言葉は、今までになかったような言葉だ。
こんなにも心配をして、気遣ってくれて、ましてやこんなに真剣に謝ったことなどあっただろうか。
疑問に思いながらも、嬉しい気持ちを隠すことが出来ず、蒼は大丈夫だと言い張った。
我ながら大胆なことを言っていると思う。
そして我ながら大胆なことをしてしまったと思う。
ペットボトルを受け取った辺りまではそうでもなかったのに、言葉に出してしまうと急にその場面を思い浮かんでしまった。
熱くて、快感でおかしくなった昨夜のことを。
初めてのセックスに、あんなにも夢中になって溺れてしまった自分を。
『…きっ、好き…っ、好き…ぃっ、あぁんっ!ん、んん────っ!!』
そして最後の瞬間、放った言葉を思い出す。
もう快感で言葉になどなっていなかったけれど、葵に意味ぐらいは通じているはずだった。
身体も繋がったみたいに、心も繋がればいいのに…。
あの時聞けなかった葵の返事が気になって仕方がない。
だけどなぜだか恐くて、蒼はそれを今改めて聞くことが出来なかった。


「課題…やらなきゃ…。」
「いいだろ今日ぐらい。寝てろよ。」
「でも僕ね、勉強好きなんだ…。だってお父さんが褒めてくれたから。いい点数だと構ってくれたから。」
「そうだったのか…。」

過去の父親の記憶が、脳内に蘇った。
その脳内にいる父親は、昨日の晩街に知らない女と一緒にいた父親ではない。
テストでいい点数を採ると頑張ったな、と優しく頭を撫でてくれていた父親だ。
そうやって父親の関心を向けてさえいれば、いつかは家族が元に戻ることが出来ると信じていたのだ。


「バカみたいだよね…、いくら勉強なんか頑張っても戻れるわけじゃないのに…。」

ぼそりと蒼が呟くと、葵は何も言わずに煙草の火を手元にあった灰皿に揉み消した。
溜め息を一つ、深く吐くと蒼が座っているベッドの隣に腰掛けた。


「昨日のお前さぁ…。」
「え?何…?」
「すんげぇこと言いまくってたよなぁ?」
「あ、あの、あの僕…!」

口の端をニヤリと上げた葵が、唐突に昨夜のことを持ち掛ける。
せっかく恥ずかしさを忘れ掛けていたのを蒸し返されたみたいで、蒼は真っ赤になってしまった。


「あの…、僕その、やっぱり変…だったかな…?」

大きく動揺して、焦燥のあまり聞かなくてもいいことをまたしても口走ってしまった。
また心臓が高鳴って、体温が上がって行くのがはっきりとわかる。
こんなにも鮮明に思い出せるぐらい、セックスというものは蒼にとって生々しい出来事だったのだ。


「いや、そんなことねぇと思うけど。」
「そ、そうなの…?かな…?」

羞恥心に負けて俯いてしまったから、葵の表情までは見えなかった。
どもりながらこの先をどうしようかと迷っていると、煙草の匂いがふわりと鼻先を掠めた。
葵がいつも吸っている、強めのメンソールの爽やかな香り。
そしてその指先が自分の頭に乗って、髪をくしゃくしゃと撫でる。
昨夜は自分の身体に執拗に触れていた淫猥な手が、今はこんなにも優しい。


「頑張ったんじゃねぇの?」







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