「そらいろ-2nd period」-4
木曜日は、朝から驚くほど良く晴れていた。
梅雨の一休みのその空は、もうすぐ来る夏の前を予感させる。
会社に有給届を出す時はもっと早く出せと言わんばかりに上司に嫌な顔をされたけれど、
そんなことは空の笑顔を見られれば、あっという間に忘れてしまう。
我ながらゲンキンな性格だと思った。
「今日は特別授業なんだって。先生がお話してくれるの。」
「へぇ…、どんな話するんだろうな。」
朝から張り切っている空は、今日は俺よりも随分先に目を覚ましたみたいだった。
隣でもぞもぞするのに気付いて、それで俺が目を覚ましたのだ。
「あきちゃん、今日はずっとお休みなの?」
「そうだよ。」
「じゃあ空が学校から帰ったらずっと一緒にいられる?」
「うん、いられるよ。」
空にはまだ、会社だとか仕事だとかの仕組みがよくわかっていない。
毎日のように何時に帰って来るのか訊くのもそのせいだ。
土日は家にいるけれど、平日に休みということがどういうものかわかっていないのだ。
それは俺のせいでもあるのだけれど。
「よかったー、帰ったら宿題見てもらっていい?」
「宿題か…、最近の小学生は難しいことやってるからな…。」
「あとね、ゲームもしよ?それで一緒にテレビ見て…。」
「ぷ、そんなにたくさんか?」
俺は笑い飛ばしながら言ったけれど、心の奥底では笑えなかった。
いつも空は家に帰って、俺が帰るまでにそうやって時間を潰しているんだ…そう思うとやっぱり辛くて。
土日は確かに休みでも、平日には平日にしか出来ないこともある。
空は口にはしないけれどやっぱり寂しいのだと思った。
「あとね、お散歩も行きたいな。今日すごく晴れてるもん。」
「そうだな…。」
「きっと夕方のお日様すごく綺麗だよ、今日。」
「うん、そうだな。」
俺はその夕日の色もほとんど知らない。
一人きりのこの部屋で空が見ている夕日を、今日は二人で手を繋いで見たいと思った。
「あっ、もうこんな時間!」
「ホントだ…、空、一人で大丈夫か?」
「大丈夫!あきちゃんはゆっくりしてて!」
「うん、でも玄関までは見送るよ。」
朝食の食器を片付けて歯を磨いた後、空はランドセルも持って玄関へ急ぐ。
俺はと言うと部屋着で寝癖までついたまま、そんな空を今日は見送りだ。
「あきちゃん、行って来ます!」
「行ってらっしゃい、空。」
玄関のドアを開けながら、空が背伸びをする。
手を握りながらしたキスは、甘いイチゴの混じったミントの味がした。
授業参観というものは母親が来るのが普通だ。
中には父親参観なんてものがあって、そういう時だけ父親が行くのが普通なのだ。
だから空の教室で俺が物凄く目立ってしまうのは当然のことだろうと思った。
男というだけでなく、俺は父親という年齢にも見えないからだ。
授業の前の休み時間の間に教室に入ると、案の定俺は注目の的となってしまった。
「あきちゃん!」
「空…。」
そんな中、空は周りを気にすることなく俺の方へと駆け寄って来た。
席を立って向かって来る空に、他の生徒もその親達も不思議な目で見ている。
「空ちゃん、その人空ちゃんのパパなの?」
「えー、お父さんじゃないでしょ?お兄さんでしょ?」
小学生というのはすぐに思ったことを口にしてしまう。
それは素直ということで考えると良いことだと思うけれど、大人にとっては少し厄介なものでもある。
何人かの生徒が口々に空に俺のことを聞き始めた。
「違うよ、あきちゃんは空のパパでもお兄ちゃんでもないよ。」
「えー、じゃあ空ちゃんのなんなの?」
「あきちゃんはあきちゃんだもん。ねっ、あきちゃん。」
「えー、へんなのー。」
「へんじゃないよ、あきちゃんは空のママの弟なの。」
「それおじさんって言うんだよ、空ちゃんのおじさんでしょ?」
へんなの…。
確かにこんなところに俺がいるのは変だ。
俺は叔父さんだと空が言わなかったのは、俺のせいだ。
ちゃんと俺が教えていないから。
いや、違う、俺と空がそれだけの関係ではないからだ。
その関係が本当はいけないことだと空が知らないから。
「ねぇねぇ、空くんののママはどこにいるの?」
「んっと、ママはパパと一緒に外国にいるよ。だからあきちゃんが一緒にいてくれるの。」
「ふーん…。どうして空くんは外国に行かないの?」
「だって空行きたくないもん。だって空は……。」
まずいと思った。
空が行きたくない理由を、あきちゃんと一緒にいたいから、なんて言われたら。
絶対に変だと思われると、俺はハラハラして仕方がなかった。
「はーい、みんな、席についてー。」
「はーい。」
運がいいと言っていいのか、ちょうどその時始業のチャイムが鳴って、担任教師が入って来た。
空と他の生徒との会話は途中で終わって、俺は内心ホッとしてしまった。
その日の授業はいわゆる性教育を交えたような話だった。
夫婦になることだとか、愛についてだとか、家族についてだとか、そんな話だった。
俺はさっきのことが気になって、それどころではなかった。
それはつまり、話を聞きたくなかったということだ。
本当は男女間でする性行為を空にしてしまっていることの罪悪感でいっぱいで。
空達は掃除の時間があったため、俺は先に帰ることにした。
本当は何人かいる他の親達と同じように待っていたかったけれど、これ以上この場所にいたくなかった。
俺の逃げだというのは重々わかってはいたけれど。
家に帰ってから1時間ほど経った頃、空が帰って来る音がした。
玄関のドアが開くのを聞いて、俺は今日のことをどう切り出そうかと迷っていた。
「あきちゃん…、ただいま…。」
「空、おかえ…どうした?!」
帰って来た空は、肩を落として俯いていた。
それだけじゃない、瞼が腫れて目が真っ赤になっているのだ。
「なんでもない…。」
「なんでもなくないだろ?泣いてただろ?泣くのにはわけがあるだろ?」
「あきちゃん…。」
「どうしたんだ?いじめられたか?それともどこかで転んだのか?」
また泣き出してしまった空が、俺にしがみついて来る。
ランドセルを背負ったまま泣いている空を抱き締めながら、俺は嫌な予感でいっぱいになった。
「あきちゃん、空はへんなの…?」
「え…?」
そして俺の嫌な予感は的中してしまう。
あの授業参観の前の休み時間から、こうなることをある程度は予想出来ていた。
だからこそ俺は逃げてしまったけれど、空が泣いて帰って来るぐらいなら、傍で待っていてやればよかった。
「掃除の時に言われたの…。」
「何…を?なんて言われたんだ?誰に?」
空の言葉を聞くのが恐かった。
俺のせいで泣いている空が、言われた言葉を。
それは泣くほど嫌な言葉で、空を傷付けたのだから。
「普通おじさんと二人で住まないって…。」
「うん…。」
「もう5年生なのに一緒に寝たり一緒にお風呂入るのもおかしいって…。」
「うん……。」
一生懸命何かを伝えようとする空に対して、俺は頷くことしか出来なかった。
やっぱり自分のしていることは間違っているのだと突き付けられている気がして。
それを空一人に、こんな小さな子供に背負わせてしまったことを激しく後悔した。
「あきちゃん、空はへんなの?あきちゃんと一緒にいるのはダメなの?」
「変じゃないよ。」
「だって空、あきちゃんがだいすきなんだもん…。だから一緒にいたいの…、あきちゃん…、あきちゃん…!」
「変じゃないよ、空、大丈夫だから。大丈夫だから、空…。」
俺の名前を呼んで泣きじゃくる空に、俺は何が出来るだろうか。
ちゃんと教えて…その後は…?
間違いだとわかった空が俺から離れてしまったら。
そしたら俺は生きていくことさえ出来なくなるかもしれない。
それぐらい、空を失うのは恐い。
だけどこのまま空が何も知らないで他人に変な目で見られるのも辛い。
どうしていいのかわからなくて、空の身体を抱き締め続けた。
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