「そらいろ-2nd period」-3





「空…、空、朝だぞ、ご飯出来てるぞ。」
「んー…?」
「学校遅刻しちゃうぞ。」
「んー…、今起きるー…。」

残業があった日は、寝るのはだいたい午後11時近くになる。
まだ小学生の空にとって、その時間は遅いと言ってもいいだろう。
だから翌朝起きづらいのも当たり前だった。
それでも残業を断ることも出来ないし、空も文句一つ言わなかったから。
就職の時に実家の両親に預けることも考えなかったわけではない。
両親に預ければ専業主婦の俺の母親もいるから、こんな生活をすることもない。
わかっていて預けなかったのは、何よりも俺がこの生活をやめたくなかったからだ。
俺の我儘で、空には色々と不自由をさせていると、これでも反省はしているつもりだ。


「あきちゃん、今日はなぁに?」
「今日はハムエッグだよ。」
「やった、ハムエッグ〜♪空大好き!」
「着替えて来いよ?待ってるから。な?」

空は毎日、ご飯のメニューを訊く。
そして俺が何を言っても、何を作っても喜んでくれる。
俺が作ったものだから、俺と一緒に食べるご飯だからと。
俺が空中心に回っているように空も俺中心に回っているのだと自惚れたくもなる。
だからこの幸せが壊れることだけはどうしても嫌だった。
ずっとずっと空と一緒にいられますように、俺はいつでもそう祈っているのだ。


「空、その…、今日も遅くなるかもしれないんだ…。」
「うん、わかった。」
「ごめんな。」
「大丈夫だよ、あきちゃんはお仕事なんだから!ね?空大丈夫だよ?」

わかっていても、俺は空に謝らずにはいられない。
空が一人でこの部屋で待っていることを考えるとせつなくなるのだ。


「今日レストラン行こうか。ハンバーグ食べに。」
「ホント?あきちゃん、いいの?レストラン?」
「うん、たまには外で食べよう?」
「やったー、ハンバーグ、ハンバーグ!」

大好きなメニューの中でも、空が一番喜ぶのは、ハンバーグだ。
それは俺のところへ来たあの日から変わっていない。
喜び方まで変わっていなくて、なんだかくすぐったい気持ちになる。


「俺が帰って来たらすぐ行こうな。」
「うんっ!レストラン、楽しみだねー。」

朝食の間、空はずっとご機嫌ではしゃいでいた。
そんな空を見ているだけで俺まで楽しい気分になれた。
その笑顔を思いながら、今日も一日頑張れると思うと、空がいることに感謝を覚えた。
こんなに可愛くて大好きな空がいつも傍にいてくれることが素晴らしいものに思えてくる。

その日は予想通り残業になってしまった。
空へは夕方頃、電話で伝えた。
わかった、そうひとことだけ言って切られた電話がなんだか名残り惜しかった。
いつもは頑張ってね、だとか待ってるという言葉が付け加えられているからだ。
だけどそれは俺の贅沢なのだと思って、この時は気にもしなかった。
ただ早く帰ってあの笑顔に会いたい、早く帰ってあの身体をぎゅっと抱き締めたい。
それだけを楽しみに残業を終えると、昨日と同じぐらいの時間になっていた。


「ただいまー、空。遅くなってごめん。空ー?」

急いで電車に乗って家に帰ると、玄関を開けるなり空を呼ぶ。
きっと今頃空はお腹を空かせて待っているだろう。
ハンバーグを食べたくて落ち着かなくて、玄関まで走って迎えに来るだろうと思い込んでいた。


「空ー?ただいまー。」

だけど俺の期待は外れて、空は現れなかった。
返事すら聞こえなくて、俺は靴を脱いで部屋の中を進む。
本当は着替えもせずにこのまま真っ直ぐレストランへ向かおうと思っていたのだけれど。


「空…?」

リビングのドアを開けると、電気さえも点いていなかった。
真っ暗な部屋の中だったから、空の姿が見当たらない。
何かあったのかと思って心臓が止まりそうになりながら、震える手でなんとか電気を点ける。


「なんだ…、びっくりした…。」

床に視線を落とすと、すやすやと規則正しい寝息をたてて空は眠っていた。
昼寝の時にいつも使っている空のお気に入りのタオルケットに包まって。
ホッと安心したのと同時に、やっぱり睡眠時間が足りてないのだと責められた気がした。


「ごめんな…。」

柔らかい髪を優しく撫でながら、頬にそっと唇で触れる。
体温が高くて弾力のあるその皮膚が、唇に吸い付くようで心地い良い。


「あれ…?」

近くに置かれたランドセルの下に、紙がはさまるようにして置いてある。
まるで隠しているような形で。
空を起こさないように静かにランドセルを動かして、その紙を手に取って見ると、
それは学校から配られた授業参観のプリントだった。


「空…。」

年に何度かある授業参観というものに、俺はほとんど行ったことがない。
仕事があって行けないと空もわかっているのか、その手のプリントを出すこともなかった。
他の生徒の親とも親交もない俺にとっては、空が出さない限りわからないことだった。
時々担任の教師と話して気付いたりした時には、終わってから随分経っていることが多い。
本当は来て欲しいのに、俺が無理しないようにと空は我慢をしているのだ。
いつものようにプリントを出そうか迷っていたから、電話をした時いつもと違っていた。
言いたくて、でも俺に迷惑をかけたくないという空の思いが痛いほど胸に滲みる。


「んー…、あきちゃん…?」
「空…、これ…。」
「おかえりなさい…。ごめんね、空、寝ちゃってたみたい。」
「いや、いいんだ。それより空、これ…。」

目を覚ました空が、瞼を擦りながら起き上がる。
俺の手を見て、一瞬気まずそうな表情を浮かべると、プリントを奪ってしまった。


「こ、これはしまい忘れちゃったの。」
「空?」
「空わかってるよ?あきちゃんはお仕事だから来れないの。」
「空…。」
「ごめんね、わざとじゃないよ?ホントにしまい忘れたの。」
「空、俺の方がごめんなんだよ…。」

無理して笑わなくてもいいのに。
そんな嘘、バレバレだって言うのに。
でも無理させているのも嘘を吐かせているのも俺だ。
申し訳なくて、情けなくて、空が愛しくて、タオルケットごとぎゅっと抱き締める。


「あきちゃん…?」
「それいつ?授業参観、いつ?」
「え?うんとね、今度の木曜日だよ…。」
「わかった。木曜な?」

空は驚いて、俺の方を振り向いた。
プリントを空の手から再び奪うと、それを眺める。
腕の中の空がだんだん笑顔になっていくのが嬉しかった。


「いいの?お仕事は?」
「有給…、あー、会社は大丈夫、休み取るから。」
「ホント?嬉しい!あきちゃん、ありがとう!」
「俺も嬉しいよ。」

空が笑ってくれて。
そしてもっともっと笑って欲しいんだ。
俺の隣で、空にはいつも笑っていて欲しい。
そのためなら俺はなんでもするし、なんでもしてやりたい。


「あっ、ハンバーグ!」
「あ…、そうだったな。じゃあすぐ出掛けるぞ。」

抱き合ってキスをしていると、空が思い出したかのように声を上げた。
レストランのことは俺も今まで忘れてしまっていた。
あまりにも空に夢中で。
自分でも呆れてしまうけれど、空しか見えないんだ。







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