「そらいろ」-2








「くーはもーすぐねんちょうさんなの。だからママとパパいなくてもなかないよ!」
「ふーん…。」
「あたらしいようちえんでともだちいっぱいつくるのー!」
「ふーん…。」

家の中に入ってから、空はずっと喋りっぱなしだ。
姉が置いていった二週間分の荷物と同じぐらいの小さな身体で精一杯喋っている。
絨毯にぺたんと座って、何も見えないみたいに夢中で。
何と答えていいのかもわからず、俺は素っ気無い返事をするだけだ。
こんなに興味なさそうにしているのに、そのこともわからないなんて。
子供っていうのは頭が悪いというか、だけど仕方がないというか…。

───ぎゅるる〜…、ぐるぐる〜…、きゅる〜ん…。
モヤモヤ考え込んでいると、それを打ち消すかのような大きな音が聞こえた。
その音の聞こえた方向を見ると、空が恥ずかしそうに真っ赤になって俯いている。


「あ、あきちゃん…、お、おなかすいちゃった…。」
「すっげぇ音鳴ったぞ今。食って来なかったのか?」
「うん、ママはしたくにいそがしくて、ついたらたべさせてもらえって。」
「あのクソ姉…。」

面と向かって言えない姉の文句を、空に聞こえないように呟いた。
俺が面倒くさがりやなのを知っていてそんなこと押し付けるんだから。
何が食べさせてもらえだ、そんなちゃんとしたもん食ってないの知ってるくせに。


「あきちゃーん、おなかすいた…。」
「あーもうわかった、わかったから!」

空に八つ当たりしても仕方ないのに。
転勤になった義兄がそもそもの原因で、姉がついていくのも悪い。
いや、悪いわけでもないけれど、 空が行きたくないのは当たり前だ。
今みたいに幼稚園が変わるのだって普通は嫌がるのを、突然言葉の違う国になんか行くと言われても、行きたいわけがない。
なんだかそう思うと、少しだけ可哀想になってきてしまった。


「くーこれはじめてたべたよ!おいしーね!」
「ママには言うなよ?」
「うんっ、いわない!あきちゃんとくーのひみつ!」
「そーそー、秘密な。」

ママに言うな、は本当で、まともな食べ物なんてなかった。
唯一あったカップラーメンを出してやると、見たことのない食べ物に空は感動までしていた。
多分姉は空にはインスタントの類を食べさせなかったんだろう。
俺に対する態度と、自分の息子に対する態度のあまりの違いから、どれだけで溺愛しているのかが窺がえたからだ。
それなら置いて行くなと言いたいところだが、旦那と子供、 どっちもどっちで選べなかった姉の気持ちもわからないでもない。
それに俺は、たった二週間だけなんだ、二週間経ったらまた一人自由な生活が待っている。
そう思えばそれほど苦にはならないと思った。


「あれー?あきちゃんはたべないの?」
「俺はいいよ、もう何もないし。」
「くー、あきちゃんのごはんたべちゃったの?」
「あー、いやそうじゃなくて…。」

そんな悲しい顔するなよ。
バカなくせして子供ってそういうところは鋭いんだもんなぁ。
たかがカップラーメン一つで泣かれたりしたらどうしていいかわからないだろ。
それで融通が利かないというか何というか…。


「はいあーん、くーとはんぶんこしよ?」
「い…、いいって!」
「ふーふーしてあげる。あーん?」
「あぁもう…、はいはいあーん…。」

こんなところ、友達になんか見せられない。
子供相手に口開けて、食べさせてもらってるところなんか。
だけどきっといらないと言い続けても空は納得なんかしないだろう。
終いに泣かれたりしたらもっと面倒なことになる。
だから仕方なく、だ。
あくまでこれは安全策でやったまでだ。
誰も見ていないのに、そんな言い訳ばかりが頭に浮かぶ。
そうでもしないと、空のこの笑顔に飲み込まれてしまいそうだったから。



「あきちゃん…、ねむくなってきちゃった…、おひるねしたいー…。」
「え…?あーじゃあ布団敷いてやるか…、おいっ、まだ寝るな!こら空っ。」
「…あきちゃ……。」
「あーあ……。」

食事が終わって、床に寝転んでいた空が、物凄い早さで眠りに就いてしまった。
布団敷く時間ぐらいは欲しかったのに。
すやすやと寝息を立てる空を、ベッドに運ぼうと身体を抱き上げた。


「うわ…、軽い…。」

ふわりと空中に浮くみたいに軽い。
温かいセーターに包まれた肌は、大人の俺よりも随分と体温が高くて、触れるその皮膚は白くて想像以上に柔らかい。
ベッドに下ろして布団を掛けてやると、時々もぞもぞと寝返りを打つ。
こうして眠っている姿は、可愛いだけなのに…。
まだ子供という生き物に対して、どういう態度を取っていいかわからない。
空が起きたら、さっきよりは慣れているだろうか。
午後の陽射しに茶色く透ける髪を、少しの間撫でてから、寝室の引き戸を閉めた。









「空、起きろ、もうすぐ夕ご飯だぞ。」
「…んにゃー……。」
「空、夜になっちゃうぞ、起きろ。」
「…あきちゃん……。」

陽が落ちようとする頃になって、寝室を覗いた。
まだすやすや眠っている空を起こすのは可哀想だったけれど、これで夜眠れなくなったりしたら大変だ。
眠れないのに付き合うのはまっぴらだ。
子守唄だの歌えなんて言われたらどうやって断ればいいのかわからない。
一緒に寝てだの言われるのも困るし。


「ご飯、何が食いたいんだ?」
「んー…、あきちゃん、ちゅーは…?」
「…は?何寝惚けてんだ?」
「おはようのちゅー、ママしてくれるよ?」
「バ、バカっ、できるわけないだろ…!」
「どうして?あきちゃんちゅーきらい?」

突然何てこと言いやがるんだ。
姉ちゃんの奴…、変なクセなんか付けやがって。
キスなんかできるわけないだろ…。
子供相手にキスなんてして、そういう趣味だと思われたらどうするんだ。
そこまで意識することなんかないのに、俺はそのキスを断固としてしないと決めた。


「ちゅーはママとパパができるんだ、俺はしちゃいけないんだよ。」
「そーなのー…?」
「そう、だから諦めろ、ママが帰って来るまで。いい子なんだろ?」
「んー、くーいいこだからあきらめる!」

子供がバカで単純でよかったと、これほど思ったことはない。
残念そうに指を咥える空の唇は、触れたらどんな感じなのだろう。
って…、別にキスしたかったわけじゃないけど…。
普段まともに自炊もしない俺が、すぐにちゃんとした食事を準備なんかできるわけもなくて、
ようやく起き上がった空を連れて、近所のファミレスまで行った。







「おいしかったねーはんばーぐ♪」
「そうだな。」
「あきちゃん、またいこうね、れすとらん♪」
「そうだな。」

大きなハンバーグを食べて腹いっぱいになった空はご機嫌だ。
適当に返す俺の言葉なんて相変わらず全然気付かない。
子供を連れた若い男っていうのは珍しいのか、店員がちらちら見ていたのが気になった。
それでも空が嬉しそうにハンバーグを頬張るのを見ると、許せてしまった。
憎めない存在っていうのは、空みたいな奴のことを言うんだろうと思った。


「あきちゃん、おふろ!」
「風呂?湯、溜めてるから入って来な。タオルはー…。」
「あきちゃんもいっしょにはいるの。くーうまくできないから。」
「はぁ?!一緒?!嫌だよ…。」
「でもできないんだもん、くーうまくできないの…。」
「あーもう!わかったわかった、一緒に入るよっ!」

半ば自棄になったみたいに承諾すると、空は一層嬉しそうにしてはしゃぎ回る。
なんだってこんなこと…。
帰って来たら、いや、もう両親にでもいい、恨み言たっぷり言ってやる。
こんなことさせるなんて、一生根に持ってやるからな…。
タオルを持って、仕方なく空と一緒に風呂場に向かった。


「あきちゃーん、まだー?」
「今行くって。」

先に浴室に入っていた空が急かす。
何度も同じことを言ってくるから、急いで服を洗濯機に放り込んだ。
別に恥ずかしがることなんて何もないのに、なぜかタオルで下半身を隠して浴室へ入った。


「あきちゃん、やって。」
「え…?」
「ママいつもあらってくれてるから。」
「な……。」

湯気で半分ぐらいしか見えない空は、もちろん何も身に付けていない。
男だというのははっきりわかっていたけれど、その事実を視覚ではっきりと確認できてしまった。
俺にもある男を主張するものが、当然まだ全然成熟していない。
小さくて、表面がつるんとしているそれを、思わずまじまじと見てしまった。
自分にもこんな頃があったはずなのに、何か別の生き物を見るような気分で。
空がうまくできないと言っていたのは、その身体を洗うことだったのだろう。
それでもとりあえず自分で途中までやったのか、ところどころに泡がくっついている。
さっき触れた柔らかい皮膚に、手を伸ばした。


「あきちゃん?」
「空、ちゃんとこっち向け、ちゃんと…。」

置いてあったボディーソープを手に垂らすと、途端にいい匂いが鼻を掠める。
たちまち泡でいっぱいになった手で、直に空の身体に触れた。
その瞬間、ごくりと唾飲むのが、自分でもはっきりとわかった。
ぬるりとした感触と籠もった浴室の空気で、俺の理性が、少しずつ壊れようとしていた。








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