「そらいろ」-1







それは、歳の離れた姉からの、久し振りの電話から始まった。
俺が中学生の時に結婚した姉は、現在既に一児の母だ。
その姉の結婚の後、高校生になってからは、遊びたいのと反抗期なのとで、寝る以外はほとんど家に寄り付かなかった。
だからその姉の子供、つまりは俺にとっての甥っ子というのは、ほとんど会ったことがない。
生まれたばかりの赤ん坊だった頃、何度か病院に行って見たぐらいだ。
そしてその後はと言うと、高校を卒業して大学に進むとすぐに実家を出たのだった。
やっと家から解放されて、一人暮らしを楽しんでいる真っ最中だったのだ。


「は?転勤?」
『そうなのよ、アメリカよアメリカ。そりゃ旦那の出世だからあたしはついて行くわよ。』
「へぇー…、すげぇな義兄さん…。」
『それでねぇ、あんたに頼みがあんのよ。』

嫌な予感がした。
さばさばして気の強い性格の姉が、頼みごとをしてくるのは大抵いい話ではない。
嫌なことを押し付ける時か、無理矢理何か寄越せと言う時。
その性格できっと今の旦那もゲットしたんだろうな、なんて思うぐらいだ。
俺とはちょうど10離れていて、相手は大人で頭もキレるわけだから、俺も俺で反抗できないのだ。
次に出て来る言葉に敬遠しながら、そのまま電話に耳を傾ける。


『くーちゃんを預かって欲しいのよ。』
「くー…?誰だそれ?犬か何かか?ダメだぞ、うちペット禁止なんだから。」
『何言ってんのよ!あんたの可愛い甥っ子でしょうが!』
「…は?そ、そうだっけ…。」

全然会っていなかったにしろ、名前ぐらいは覚えてるぞ。
そんな名前じゃなかっただろ…、えぇと確か…。
あれ…、やべ…、思い出せないじゃんか。
こりゃこっ酷く叱られそうだな…。
おそるおそる、姉の更に次の言葉を待つ。


『空(そら)っていうの忘れたの?!うちでは音読みでくーちゃんなの。可愛いわよぉー。』
「い、いや…、忘れちゃいないけど…。」
『どうしても外国は嫌だって言うのよ。毎日泣いてるし。仕方ないからあたしだけ。』
「そ、それはわかったけどなんで俺なんだよ?ばばあに預けりゃいいだろ?」

何だって自分にそんな役が回ってくるのか理解できなかった。
うちの両親も、旦那の両親も健在なのに、何で俺なんかに。
旦那の両親に頼みづらいのはまだわかる。
だったらうちの両親に預ければいい。
自分達の孫を独り占めできるんだ、喜んでいいと言うだろう。


『お母さんギックリ腰なのも知らないの?!あんたちょっとは家と連絡取ってるの?!』
「ご、ごめん、最近取ってないけど…。」

最近どころか実家とはもう何ヶ月も連絡を取っていない。
電車に乗れば、一時間もかからないような場所にその実家はあるのに。
そんなことを姉に見破られたらまた説教でもされそうだ。
既にもう電話の向こうで怒っている顔が見えるようで、びくびくしながら電話を握り締めていた。


『入院してんのよ。あたし達も急ぎなのよ、だから二週間でいいわ。預かって。』
「ええっ!!やだよ、俺がなんで…。」
『あんたは自分の甥っ子が可愛くないの?!そんな薄情な弟に育てた覚えはないわよっ?!』
「そんなこと言われても…。」

あぁもう…。
これはもう押し付けモードに突入しているな…。
可愛いも可愛くないも、会ってないのにそんなことわかるわけないだろ…。
しかも育てたって、姉ちゃんが俺を育てたんじゃないだろうがよ…。
ここで逆らったら後々面倒なことになるのはわかっているけれど。
だけど子供預かるなんてもっと面倒だろ。
一体どうしたら上手く断ることができるんだ…?!


『そういうことだから、明日行くわよ!頼んだわよ!』
「え…、ちょ、待てって!明日って…!おいこらっ、待て………。」

俺が悩みに悩みまくっている最中にもかかわらず、一方的に言うことだけ言って、姉は電話を切ってしまった。
唖然として電話を握って突っ立っている俺には、虚しい電話の切れた音だけが聞こえていた。
どうするんだよ…、二週間、子供預かるなんて…。
またしても悩み始めた俺は、ほとんど眠ることなく次の日を迎えた。











「ちょっと!!いないの?!開けなさいよっ!!」
「ん〜…。」

昼を過ぎて、その眠れなかったツケが回って来てうとうとしていた。
インターフォンというものが一応ありながら、姉には見えていないらしい。
ドンドンと激しくドアを叩く音で、吃驚して目を覚ました。


「近所迷惑だろうが…。」

ブツブツと文句を呟きながら、ドアノブに手を掛ける。
預かる子供がそんな姉に似ていたらどうしようか。
言うことの聞かない我儘なガキだったら面倒くさい。
元々子供なんて好きじゃないから、どうやって接すればいいか。
ほんの数秒の間に、色んなことを考えながら、溜め息を一つ吐いてドアを開いた。


「遅いわよ。」
「ご、ごめん…。」
「ほら、くーちゃん、挨拶しなさい、秋生おじちゃんですよー。」
「おじちゃ…、やめてくれよ、俺まだ20歳……。」
「こ、こんにちは…!」

───え………。

「このおじちゃんにちょっとだけお世話になるからね、いい子にしてるのよー?」
「あいっ、くーはいいこにしてます!」
「ちょっとあんたっ、あんたも挨拶ぐらいしなさいよっ。」
「……え、あ…、うん…。」

待てよ…。
久し振りとは言え、こんな顔だったっけ…。
確かに姉ちゃんにも義兄さんにもどこか似てると言われれば似てるけど…。
こ、こんなに可愛かったっけ…?!


「おじちゃん、なかよくしてね。」
「…お、おじちゃんじゃない、秋生くんとか秋生さんとか秋生兄さんって呼べよ。」
「んーじゃあきちゃん!」
「あーだからそうじゃなくて…。」

いや、何をやっているんだ俺は。
こんな幼稚園児に見惚れるみたいこと…、危ない大人か俺は。
しかも甥っ子っていうんだから、絶対に、100%こいつも自分と同じ男だ。
あきちゃん、と呼ぶその甥っ子が、あまりにイメージしていたのと違い過ぎて、驚いた。
目が大きくてキラキラしていて、姉の手を握る手は小さくて柔らかそうで。
だけどやっぱり子供だから、こっちの言っていることが通じない。
ここで甘やかすわけにはいかない。


「ちゃんとしたもん食べさせてよ?」
「わかってるって…。」
「あきちゃんとごはーん♪ママー、くーね、あきちゃんとごはんたべるー。」
「そうねぇ、くーちゃん食べたいもの言うのよ?」

そんな勝手なことばかり言って。
空って子供もそうだ。
俺はそんなに仲良くご飯だなんて御免だ。
何が楽しくてガキと二人ご飯食べなきゃいけないんだ。
それでも姉に歯向かうことはできなくて、玄関先で何も言えずにはしゃぎ回る空を見ていた。


「じゃあママはパパと行ってくるわね、いい子にしててね。」
「うんっ!くーはあきちゃんといいこにしてるの!」
「いい?!しっかり頼んだわよ、秋生!!」
「は…、はい………。」

参った、迫力負け。
久し振りに会っても全然変わらない姉に、一言も文句も言えなかった。
見えなくなるまで手を振る姉に、空はいつまでも手を振り続けていた。
二週間、二週間だけだ、その間だけだ。
無事に実家に渡せばいいんだから、簡単だ。
頼りない決意をして、空を中に入れて玄関のドアを閉めた。








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