「Love Master.3」-3





その後のことはあまりよく覚えていない。
講義なんか頭に入るはずもない、しかも裏口入学だなんて知ったら余計出る気も失せた。
家に帰れば当然遠野がいるわけで、仕方なく夜まで時間を潰した。


「はぁ───…。」

近所のファミレスのドリンクバーでひたすら時間を潰す。
本当はこの先どうするか考えるつもりだったのに、何も思い浮かばない。
思い浮かぶのは、あの大学での裏口入学の言い争いだけだった。
一人にしてくれ、今まで遠野にあんな風に冷たく言い放ったことなんかなかった。
だからこそ、遠野も俺を追い掛けて来なかったのだと思う。
しかしいつまでもこうしているわけにもいかない。
ファミレスの店員もさっきからチラチラ俺のことを見ているし、ジュースもコーヒーもお茶もそろそろ飽きて来た。
飲み過ぎて腹の中でチャプチャプと音までしそうだ。
遠野ももしかしたら物凄く心配しているかもしれない…なんて俺の自惚れってことはないよなぁ…?
いや、遠野のことだ、それも予想外れということもあるな…。
でも!いくらなんでも心配してないってことはないよな…。
あの時の、俺が怒鳴った時のあいつの表情と態度を考えたら。


「315円になります。」

夜の10時を過ぎて、俺はやっとファミレスから出た。
会計の時に店員が軽く睨んでいたのには少し申し訳なく思った。

前に喧嘩したのは高校生の時だっけ…。
俺が目玉焼きにソースをかけたら遠野が突然怒って…。
何かと思えば、目玉焼きには日本人なら醤油だ、なんて言った。
あの時は遠野の方が先に折れた。
いや、折れてはいないが…、三日間口を利いていなくて、先に口を開いたのは遠野だ。
俺はその三日間、もやもやしっ放しで、でも何も出来なかった。
そして真相はというと俺との味の好みが合わないと思った遠野が、俺と結婚できないと思っていたという非常に飛躍した話だったのだ。
ソースどっちが好きだ、なんてわけのわからない遠野らしいこと言うから最初は理解出来なかったけれど。
おまけに喧嘩勃発の時に俺が言い放った「遠野に振り回されている」という言葉を、あいつはちゃっかり覚えていてそれも責められた。
それは後から「振り回されてもいい」と、ちゃんと俺も謝った。
そうなんだ、あんな何を考えているのかわからない遠野と、そうやって話が通じないっていうのも、案外楽しかったりするんだ。
話が一方通行どころか道を外れてどこに行くのかさえわからない。
そういうのを迷惑な振りして結構楽しんでたんだよな…俺…。
それが遠野の悪い(というか変な)ところであり、いいところでもあるから。


「遠野…。」

やばい…。
俺って、思ってたより遠野にベタ惚れなのか?!
今、寂しい、会いたいって思ったぞ!
しかも本人がいないところで名前なんか呟いて!
俺はいつからこんな悲劇のヒロインみたいに…、あぁ何やってるんだか。
これは早く帰って、とりあえず話し合いでもするしかない!
許すとか許さないとかは別として、遠野の言い分を聞かないのは俺も悪かった。
そうと決まればさっさと帰る以外はないだろうと、俺は小走りしながら遠野の待つ家へと急いだ。





「た…、ただいま…。と、遠野…?」

ファミレスからは走って10分もかからない。
息を少し乱しながら、カードキーでエントランスを抜け、自分の部屋に入った。


「遠野…?もう寝たのか?でもちょっと聞いてくれ…。」

この時間に遠野が寝るのはそこまで珍しいことではなかった。
お坊ちゃまなあいつは、俺は一日8時間寝ないとダメだと言い張る。
その言葉通り、いくら遅く寝ても、きっちり8時間睡眠を取るのだ。
遅刻しようが何をしようが、我が道もそこまで貫かれると逆に気持ちがいい。


「あれ…?遠野…?」

どの部屋も電気が点いていない。
寝ていると思った俺は、まず寝室へ向かったが、ベッドに遠野の姿はなかった。
それなら俺を待っているうちにリビングで寝てしまったか。
だけどその時俺の胸の中に、物凄い不安感と焦りが生まれた。


「うっそ…、マジかよ…。」

まさか、とは思ったが…。
リビングのドアを開けるほんの数秒の間に俺が考えたことが、そのまんま目の前で起きていた。
暗い部屋と、テーブルに置かれた一枚の紙。
ご丁寧に紙が飛ばないように、シンプルなグラスで押さえられている。


『実家に帰る。 遠野龍之介』

その紙に書いてあったことも予想通りだ。
実家に帰らせていただきます!テレビドラマでも最近は頻繁に見ない、夫婦喧嘩のワンシーンだ。
帰る、なんて書き方が遠野そのものなのが、こんな時なのになぜだか可笑しくなってしまった。
物凄く太い毛筆で書かれたその字が、遠野の決心の強さを物語っているみたいだ。
わざわざ墨なんか磨ったとか言わないよな…、紙から墨の匂いがするんだけど。
果たし状じゃあるまいし、何もこんな風にハッキリキッパリ書かなくたって…。
それほどあいつもショックだったか、怒っているということなのだろうか。


「つーかベタ過ぎるだろ…。」

そういう問題じゃないのもわかっている。
でも俺には、信じられないことだった。
あまりの非現実的さに、本当に笑いたくなるぐらいだったんだ。


「ぐわあぁー!どうするんだよー…。」

ただでさえ広い部屋に、俺の情けない声が響く。
大学生の男が二人でいても広いのに、俺一人だとこんなにも広いものだったのか…。
遠野が残した紙を握り締めて、床に崩れ落ちて、頭を抱える。
この時涙を零さなかったのは、はっきり言って奇跡だと思う。

とにかく迎えに行くしかないと思った。
だけど暗闇で光る時計の針を見ると、既に午後10時半を回っている。
タクシーで行く金の余裕はないから、今から電車に乗って行ったとしても、遠野の実家のある駅に着くのは確実に12時近くだ。
しかもあいつの実家がまた広いなんてもんじゃなくて、門から家屋へ相当時間がかかる。
遠野に話をする時間を入れて、遠野が帰って来てくれればいい。
後で返すから、とタクシーで帰るのも有りだ。
もしかしたらあいつの家の使用人の誰かが心配して送ってくれるかもしれない。
だけどそれはあくまで遠野が帰って来る場合だ。
もし帰る気なんてありません、離婚よ!だなんて言われたら…。
遠野家の皆の前で、離婚届を突き付けられたら…。
いや、離婚も何も結婚してないどころか結婚すら今のこの日本では出来ないんだけど。
そしたら俺はどうしたらいいんだ?!
帰りをどうするかもそうだけど、俺はこの先どうやって生きていけば…!

俺にはまだ、その最悪なパターンを受け入れる覚悟なんかなかった。
とりあえず、と言い訳をして、俺は布団に入って朝を待つことにした。
夢でもいいから、誰かに会いたいと思ったのも、人生初だった。
もしくは、これは夢であって欲しいとか。
非現実的なのは、俺の頭の中も同じだった。







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