いつものように自宅へ帰ったある日のことだった。
その、いつも、なら俺が玄関のドアを開ける音を聞いて、志摩がぱたぱたと走ってやってくるところだ。
猫のシマも小さな身体で一生懸命後ろを追いかけて。
ところが、いつまで経っても志摩も猫のシマもやって来ない。
別に待ってるわけじゃないけれど、毎日のことがないと人間っていうのは不安になるもので、もしかして志摩がどこかへ行ってしまったんじゃないか、
なんて、恐ろしいことまで想像して女々しくなってしまう。
「志摩…?」
部屋の中に名前を呟きながら踏み入った。
夕ご飯が作る途中で放置されていて、食欲をそそるいい匂いが充満している。
これは…どういうことだ?
まさか本当にいなくなった、もしくは何か事件に巻き込まれたか。
考えたくないことばかり浮かんで、奥の寝室の引き戸を開けた時だった。
「志摩…。」
呆れたように、だけどホッとしてまた名前を呟いた。
そこには、毛布に包まって眠っている志摩がいたからだ。
「志摩、志摩っ。」
「…ん、あ、ハイ…。」
「志摩っ!こんなことろで寝るな。」
「…ハ、ハイっ!ごめんなさいっ!」
なのにどうして俺はこう怒ったようなことを言ってしまうんだろう。
本当は志摩がここにいることで、それだけで安心できるのに。
いてくれてよかった、そう感謝さえしているのに。
「風邪ひくだろ。」
「隼人……、う…。」
「そんな薄着で床で寝るなって何度言ったら…。」
「隼人…。うぇ…、うっ、隼人ーー!」
やっとちゃんと起きたかと思うと、突然志摩は泣き出して俺にしがみ付いて来た。
そういえば泣き出す前から、瞼が腫れて、目が真っ赤だった。
「どうしたんだよ、びっくりするだろ。」
「う…っ、ごめ…、あの、シマにゃんが…っ。」
志摩は泣きじゃくって何を言っているのかわからない。
俺の服はみるみるうちに濡れてしまった。
床に置かれた毛布もよく見ると濡れている。
男のクセによく泣く奴だな、とは思っていた。
だけどそれは感情を表に出せる志摩だからなのかもしれない。
次の瞬間、俺まで危うく泣きそうになってしまったけど。
「シマにゃんが…いなくなったの…。」
***
猫のシマがいなくなってしまったらしい。
いつものように家の中にいたのに、気付いたらいなくなっていて、
窓が開いていたけれど、下には見えなかった。
その前にここは3階だ、シマが飛び降りるわけがない。
下まで見に行ったけれど見当たらない。
しかしあのシマが一体どうやってここから出て、どこへ行ったって言うんだ…?
まだ小さいんだ、外に出るのも志摩と一緒の時ぐらいだ。
そうだ、志摩と一緒でなければ…、あんなに志摩に懐いていたのに。
「隼人…っ、どうしよう…。」
「いいから顔拭け、ぐちゃぐちゃだ。」
「俺と隼人が仲よすぎるから出て行っちゃったのかなぁ…。」
「それは…。」
それは俺のせいでもあるって言うことか?
そんな理由だったら俺はどうしたらいいんだ。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった志摩の顔を、もう濡れてしまったから、と服でゴシゴシ擦った。
「大丈夫だ、すぐ見つかるって。」
「でも…どこにもいないよー…。」
「シマがお前を置いていくと思うか?」
「う…、思わない…です…。」
そうだ、あの猫のシマは、あれだけ志摩のことが好きだった。
俺が傍にいると嫉妬してるんだか知らないけど、大きな瞳で睨んだり唸ったりして、俺のことを嫌ってるみたいに冷たい態度を取ったりしていた。
それだけ志摩のことが好きだったのに、いなくなるわけがない。
それに猫のシマは、この志摩に拾われて、一緒にいるんだ。
そんな志摩を置いて行くわけがない。
俺にとっても志摩にとっても、家族なんだから。
「とりあえずご飯は…、俺が続きやるから。」
志摩が風邪をひいた時にわかっていたことだった。
続きをやる、なんてえらそうなこと言ってしまったわりには、やっぱり俺にはそんなことできるわけもなくて、せっかく志摩が途中まで作っていたものをほとんどダメにしてしまった。
志摩に任せっきりっていうのもよくないのかもしれない。
こんな時にどうでもいいことを考えてしまう。
「ごめん志摩、失敗したからなんか買ってくる…。」
「いらない…。」
「え…?」
「ご飯、いらないです…。」
これは思ったよりショックが大きいのかもしれない。
あの志摩がご飯をいらない、なんて、重症もいいところだ。
いつだって俺よりはるかに食べることには執着していたのに。
志摩がいつも美味しそうに食べるのを見るのが好きだった。
それを見るだけで幸せを感じられた。
そんな志摩がご飯をいらないと言うなんて、俺には志摩をどうやって慰めていいのかわからない。
人と関わることが巧くできない人間っていうのは、こういう時使えないと思う。
俺っていう人間はなんて何もできない人間なんだ、と我ながら悔しくて、それでも何もできなくてもどかしい。
「腹減ったら来いよ。」
こんな時に気の利くことを言えたらいい。
俺はやっぱりいつまで経ってもそういうことができないんだろうか。
志摩がいてくれて、そういうところもちょっとはマシになると思ったけど、人間なかなかそう簡単には変われないってことか…。
もしこれからもこのままだったら、一体どうしたらいいって言うんだ。
自分を責めながら、溜め息を吐いてバスルームへ向かった。
志摩は風呂も沸かしていないみたいだった。
よっぽど余裕がなかったんだろう。
そりゃそうだよな…、俺だってかなりショック受けてるんだ…。
「み~…。」
「あれ…?」
バスルームのドアを開けると、小さな鳴き声が聞こえた。
怒っていいのか笑っていいのかわからず、だけど心から安心して、
再び泣き寝入りしてしまった志摩のところへ向かった。
***
「志摩、起きろ。」
「う…、だって…。」
「いいから。」
「だってシマにゃんがいな……、いたー!!!」
「風呂に落っこちてた。」
「ええっ!!そんなぁー!」
浴槽の中で、寂しそうにシマは鳴いていた。
小さな身体では上がることはできなかったんだろう。
お湯を入れる前でよかったと思う。
「しかしなんであんなところにいたんだ?」
「わかんない…、シマにゃん大丈夫?」
「み~…。」
「おい、なんであんなところにいた?」
「みゅ~…。」
「シマにゃん、心配したんだよー?……あぁっ!」
顔を擦り付けて甘える猫のシマもびっくりするぐらい、
大きな声で志摩が突然叫んだ。
「俺、お風呂掃除してたんだった…。」
「バカ、なんで途中でほったらかしたんだ…。」
「隼人がメールくれて返事してて忘れちゃって…。」
「え…。」
それは…、俺のせいということだよな…。
志摩を責める資格なんて完全に俺にはなくなってしまった。
確かにバイトが終わる2時間ぐらい前、俺は志摩にメールをしていた。
それも、どうでもいいというか、恥ずかしいというか…。
「それはお前がその前にメールして来たからだろ。」
「でも…、俺嬉しくなって…。」
「でも、じゃない。」
「だって隼人が…。」
だけどやっぱり俺は素直に謝ることもできなくて、その前にメールを送って来た志摩のせいにしてしまう。
猫のシマが俺と志摩に嫉妬していなくなった、バカなこと言ってるな、と思った志摩の発言も、強ち間違いでもないかもしれないと思った。
「こんな嬉しいこと書くからだもん…。」
「み~…っ!」
「バカ…、見せるなよ…。」
志摩の手には、俺が打ったとんでもないメールの文面が出たままの携帯が握られていた。
この俺があんなメールを打つなんてどうかしている。
まるでラブラブカップルか夫婦の会話みたいな…。
頭を抱えながら、自分の行動を恨みたくなった。
さっきの俺の欠落した人間性の将来の心配は否定された。
俺はどうやら変わっていけているらしい。
志摩の腕の中では猫のシマが、俺を睨んで鳴いていた。
『今日は18時に帰るから。』
正確には、その最後は今まで打ったこともない、笑顔マークの絵文字だったから。
END.