数日前、藤代さんがまたおかしなことを言い出した。
それぞれの恋人を入れ替えて半日過ごしてみよう、ということだった。
またこの人も変なこと言い出すなぁ、なんて半分呆れそうになったけど、別に過ごすだけならいいのかな、なんて思ったのだった。
何より、俺の本来の相手である志摩が興味深々だったから。
いつもより瞳を大きく輝かせて面白そうだねー、なんて言われたら、嫌なんて言葉は言えなくなるに決まっていた。
「んじゃねー隼人、行ってらっしゃい!!」
いつものバイトに行く時のように志摩が玄関で見送る。
靴を履こうとする俺の首元に腕を絡ませて、ベタベタひっついて来て、これじゃあ靴も履けないぐらいだ。
嬉しい心とは裏腹に鬱陶しそうな表情で志摩に応える。
どうでもいいけど”行って来ますのちゅー”ってのは未だに慣れることができない。
「…あ、隼人ー……。」
「何?」
ふと、近付いた志摩の唇が不安気に俺の名前を呼んだ。
こんなところで止まられたらよけい恥ずかしい。
「ホ、ホントに猫神様にしないでね…。」
「何言ってるんだよ…。」
「だって…、あの…。」
「そんなことあるわけないだろ。」
俺がお前以外にするわけがない。
そんなことはわかっているかもしれないけど、俺の普段の態度じゃ志摩も不安にもなるだろう。
それでも俺は志摩ほど素直には到底なれなくて、俺なりに素直にその思いを口にすると、志摩はいつもの笑顔に戻った。
「ハイっ!よかったー、行ってらっしゃいっ!!」
「…行ってきます…。」
どうしてそこまで俺の一言や行動に一喜一憂するんだ…。
その素直さを少しでいいから分けて欲しいぐらいだ。
志摩の明るい声と甘いキスに見送られ、俺は自宅を後にした。
自宅から歩いて15分と言ったところだろうか。
そこには今日だけ俺の相手になる猫神様、藤代さんの弟の恋人が待っている。
特にきっちり時間を決めていたわけではないが、さっき玄関を出たすぐ後に藤代さん、兄のほうだけど、会ってしまったので、少しだけ急ぎ足でそこへ向かった。
「あぁ、久し振りだな。」
「はぁ…、どうも…。」
「上がるとよい。」
「お邪魔します…。」
玄関のチャイムを鳴らして、猫神様が現れると、簡単な挨拶を交わして俺もその部屋の中に入れてもらう。
綺麗に片付いた室内はこの人が毎日掃除でもしているんだろう。
うちは、志摩がそれをやってくれているけど。
部屋の中には綺麗な色の花がいくつも飾ってあって、それは藤代さんの弟が持って帰って来たものか、この人が買って来たものなのか…、それぐらい色とりどりだった。
大きさもまばらなのに、統一感があるのは二人が思い合っているせいだろう。
時々微かに花の甘い香りが漂ってくる。
「あの、猫神様は…。」
「銀華だ。私はもう神ではないからな。」
「そうなんですか。」
「まぁそう堅くならなくてもよい。」
そう言われてもな…。
なんだかこの人は迫力があって敬語になってしまう。
線は細いのに、見つめられると圧迫されそうな力がある。
神ではない、と言ってもその迫力だけは今でも変わらないみたいだ。
「志摩、と言ったな。お前の…。」
「あぁ、志摩がいつもお邪魔してすいません。」
「それはよい。面白い子供だ。」
「まぁ…、そうだけど…。」
頻繁に志摩はシロとここに遊びに来ているらしい。
必ずその報告を事細かにするからわかる。
しかし子供って…確かに子供っぽいし子供だと思うこともよくあるし、微妙な年齢ではあるけど、そう言われたら俺は悪いことでもしてる気分になってしまうんだけど…。
「シロもだが…、素直であるのは少々羨ましいこどだ。」
「え…、そうなんで…あーいや、そうなんだ…。」
「あれはお前のお陰と聞いたが。」
「いや別にそういうわけでもないけど…。」
志摩の奴、ここでもそんな話してるのか。
俺が凄い人間に思われていたらどうするんだよ。
そしてどこまで俺達はバカップルだと思われてるんだ。
あれほど人様のところで自慢はするなって言ってるのに…。
また帰ったら俺は志摩を叱ってしまうんだろうか。
「私はそういうのが得意ではない。お前もだと思うが…違うか。」
「え…、どうしてわか…。」
「初めに話した時に思ったことだ。」
「そうだったのか…。」
なんとなく、さっきまでの緊張が解れた気がした。
お前もだ、と言ったからにはこの人もそうだったわけで、
似た者同士というわけじゃないけれど、それからはそこまで堅くならずに話せたと思う。
今この人がここにいるまでの過去の辛い恋愛の話や、俺の過去の話まで。
ただ…、わかっていたことだけど、志摩とは違う。
あくまで静かな声で、そんな過去の話や時々花の話をする。
決して不快になるようなことはないのだけれど、なんだか恋愛というよりは、人生相談でもしているような…。
もしくは、老後の夫婦の縁側での会話のような静けさと穏やかさだった。
志摩といる時は違うんだ、もっと落ち着かなくて、志摩の言うことや為すことに一喜一憂して…。
そうだ、あれは志摩だけじゃない、俺もだったんだ。
確かに落ち着いた恋愛もいいのかもしれない。
この人は傷付いて疲れたから、落ち着いた恋愛ができる藤代さんの弟を選んだんだろう。
だけど俺には、今まで悲しいという感情までなかった俺には、志摩がちょうどいい。
「どうしたのだ?顔が綻んでいる。」
「いや…ちょっと思い出して…。」
「お前は笑った顔のほうがよいのではないか。」
「銀華さんもな。」
それから静かに俺達は笑って、別れの挨拶をした。
***
そこの玄関を出た後、ふとポケットに突っ込んでいた携帯を見た。
音を消していたので気付かなかったけれど、そこには志摩からのメールが何通も届いていた。
『今こっち終わったよー。』
『亮平くん帰ったよ。』
『隼人はいつ頃帰ってくる?』
『待ってるねー。』
『今日のご飯は何がいい?』
『さっき郵便来たよ。ガス代のだった。』
そんなことを分刻みで何通も送って来ていた。
郵便が来たのがわかるということは気になってポストのある一階まで行ったんだろう。
直接帰って来いと言えないのにそれを思わせるメールばかりで、俺が気付いてないと思ってやっているようで、その頭の悪いところが可愛いと思う。
俺が怒るだろうと思ったのか、最後は何度もしつこくてごめんなさい、というメールで、思わずだったらするなよ、と心の中で可笑しくなってしまった。
通り道にある商店街で志摩に大好きなエビフライでも買って行ってやろう。
今日のおかずは買った、そうメールを打とうとして恥ずかしくなってやめた時だった。
『あの、隼人、寂しいです、好きです。早く帰って来て下さい。』
来た時よりも急ぎ足で、甘ったれで寂しがりやでちょっとバカで我儘な、一番好きな人のところへと向かった。
もちろん、手にはエビフライを持って。
END.