名前は広軌さん、24歳。
僕よりも年上で、つい最近までお店の店員さんだった。
上の人と意見が合わなくて大喧嘩をして、仕事をやめてしまった。
僕は上の人に逆らうことなんか出来ないから、広軌さんには悪いけれどちょっとだけ羨ましくなった。
毎日家にいると気分も落ち込んだりするから、公園に来ていた。
いつも見ていた本は求人の雑誌だった。
携帯電話でも、仕事を探していた。
もう一つ、広軌さんがここに来る理由があった。
自分の住んでいる家の近くにあるこの公園の桜が好きだから。
遊具もほとんどない、寂しい公園だけど、何もないからこそ桜が映えるのだと広軌さんは言う。
僕はそんなこと思ったことがなかったから、感動してしまった。
その桜は、広軌さんの生まれた地方にあるものと似ているらしい。
周りが田んぼだらけで、民家もぽつぽつとしかないド田舎だ、なんて笑っていたけれど。
それでもきっと、その土地が好きなんだろう。
視線が、遠くを見て焦がれていた気がしたから。
『名字に桜って付くんだ、桜田広軌。』
僕が桜の話をして暫く経った頃、そんな風に名前を教えてくれた。
なんだかロマンチックですね、と僕が言うと、ありがとう、と言ってくれた。
「ふー…、あともうちょっと…。」
僕は今日のことを思い出しながら仕事をした。
遅れていた仕事がもっと遅れてしまったから、今日は徹夜かもしれない。
それでも幸せな気分で、順調に桜を咲かせていった。
次の日も、約束通り、広軌さんは公園にやって来た。
前の日の話の続きを、僕はまた夢中になってした。
広軌さんは驚いたり感心したりして、僕の話を聞いてくれた。
その3日後、桜の花が散り始めた。
年のうち春と、他の季節は何度かこうして日本を旅して回っている。
それが僕の仕事で、僕が桜の精として生まれた運命だ。
うまくいかなくても、叱られても、僕はこの仕事が好きだった。
それが初めて、旅なんかしたくないと思ってしまった。
もう明日には、僕は別の場所へ行かなければいけない、そんな時になって。
その理由が、僕にはすぐわかった。
「二人だけで夜桜見物なんて贅沢だよなー…。」
旅立ちの前の日、僕は広軌さんが帰るのを引き止めてしまった。
物凄い我儘を言っているっていうのはわかる。
でもいつもみたいに、別れたくなかった。
広軌さんはそんな僕の我儘を快諾してくれた。
せっかくだからと、近くの店で食べ物や飲み物を買ってきてくれた。
僕はこんな広軌さんを好きになってしまったから、行きたくなかったんだ。
「俺さぁ、本当はやりたいことあるんだよなー…夢っていうか…。」
お酒を飲んで、いい気分になったのか、広軌さんは虚ろな目でシートに寝転がった。
青いシートの上に、散り出した桜の花弁が、はらはらと落ちる。
「あの、こんなところで寝たら風邪…。」
僕が気付いた時には、広軌さんは寝息を立ててしまっていた。
買って来た食べ物は、ほとんど残っていない。
ペットボトルのお茶も、広軌さんが飲んでいたお酒も。
こうして楽しい時間というのは終わってしまう。
桜が花を咲かせているのも、終わってしまう。
自分がしている仕事なのに、寂しくて、泣きたくなってしまった。
「あ………。」
下を向いたまま、広軌さんに視線を向ける。
落ちて来た花弁の一枚が、眠る広軌さんの唇に落ちた。
薄いピンク色の花弁が、血色のいい広軌さんの唇にくっついている。
取ってあげなきゃと伸ばした手が、小刻みに震える。
公園の外灯に、広軌さんの滑らかな肌が光っている。
「…あれ……、俺寝てたのか…。」
「わあっ!」
「何?びっくりした…。」
「ぼ、僕も、び、びっくりしました…。」
突然目を覚ましてしまった広軌さんに触れようとした手の引っ込みがつかない。
何をしているんだ、とか怒られたらどうしようと悩んでいると、迷った手が、広軌さんに取られた。
温かくて、僕よりも大きな手。
「いい匂い…、桜の匂いがするな…。」
「あの…広軌さん…。」
「お前の身体、桜の匂いがする…。さすが桜の精だな。」
「僕の…身体ですか…?」
僕は、寝たままの広軌さんの腕の中にいた。
春になってずっと花の傍にいたから、匂いがうつってしまったんだろう。
僕の背中や髪や頬を、広軌さんは次々に撫でる。
心地いい感触に、静かに瞳を閉じた。
「キスしたら…桜の味、するかな…。」
「…広軌さん……。」
「やっぱり…。桜の味がする…。」
「広軌さん…、す…、好きです…。」
その味は、くっついたままの花弁のせいだったのか。
それとも僕の身体の内部まで桜が染みていたのか。
散り続ける桜の下で、僕と広軌さんは何度もキスをした。
他には誰もいない、桜の木と花達だけが見ている中で。
翌日になって、僕は旅立つ支度をしていた。
あの後広軌さんは、いい気分になったと言って帰って行った。
僕はとうとう、旅立つことを言えずに終わってしまった。
「行くのか?」
「あ…、広軌さん…!」
公園の桜の木の一本一本、花弁の一枚一枚にまで聞こえるように挨拶をしていた時だった。
また来年も、来るからね、一人で呟いて木に耳をあてて。
「言ってただろ、散り始めたら移動するんだ、って。」
「覚えてて…くれたんですね、僕の話…。」
昨日の夜、ここでキスしたことは、覚えていてくれていますか?
腕の中で、僕が思いを告げたことは、覚えていてくれていますか?
何かの間違いだと言われるのが恐くて、僕はそのことを聞けずにいた。
「俺、本当は昔から、絵本作家になりたかったんだ。ガラに合わないけど。」
「そんなことないです!素敵です…。」
「なんだかお前見てたら、頑張ろうって思って。」
「僕を…見てたらですか…?嬉しいです…、広軌さん、僕…。」
僕のことを、そんな風に思っていたなんて。
いつも仕事が遅くて、叱られてばかりだったから、そんなことを言われたことがなかった。
僕を見ていて頑張ろうなんて、そんなことを言われたら、しちゃいけない期待までしたくなってしまうのに…。
「来年も、来るんだろ?」
「はい、来ます、僕の仕事ですから…。それに僕、また広軌さんに会いたいです…。」
「じゃあ…、約束してくれるか?ここでまた会うって。」
「はい…。」
指切りの代わりに、広軌さんの手が僕の頬に触れた。
昨日と同じ温かくて大きな手。
僕はその手をぎゅっと握り締めて、瞳を閉じる。
「名前、聞いてなかったな。」
「僕の名前は…、レイシルです。」
「レイシル、また来てくれよ…?」
「あの、広軌さん…、誰かに見られたら…。」
そのまま唇が重なろうとして、瞳を開けて辺りを見回した。
ふわりと笑った広軌さんが、耳元で小さく囁く。
「大丈夫、桜しか見てないから。」
僕も笑みを返すと、握った手に力を込めた。
唇が重なると同時に、広軌さんは好きだと呟いて、キスをくれた。
また来年、来ます。
きっときっと、ここに来ます。
そしてまた、広軌さんと会って、キスをして欲しいです。
***
あれからやっと1年が過ぎた。
相変わらず仕事は遅い僕だけれど、楽しくやっている。
広軌さんと会えなくて、寂しい時もあるけれど、そういう時は眠る前に祈るんだ。
そういう日は決まって、夢の中で広軌さんと会るんだ。
「ルー、早かったね。ありがとう、おいで。」
次の日になって窓際に、ルーが帰って来た。
僕は優しく抱き締めるようにルーの羽を撫でる。
脚には、薄いピンク色の紙が巻き付いている。
「これ、僕に?」
僕が昨日巻き付けたものとは違うものだ。
心臓を高鳴らせながら、その紙をルーから外して、開く。
初めて見る、広軌さんの柔らかな字。
『レイシルへ
会えるのを、楽しみにしてる。
俺も最近は忙しくなった。
今度、自費だけど本を出すことになったんだ。
こっちに来たら、見せてあげる。
桜田広軌』
「写真だ…。」
ちょっとだけ皺になってしまっていたけれど、写真が一緒に巻かれていた。
あの公園の、あの桜の木だ。
広軌さんがあのベンチに座って下から撮ったものだ。
蕾が膨らんで、ところどころ間から、花弁が顔を出しているのがわかる。
「おいで、ルー、急がなきゃ。」
開花予定日まで、あと3日。
僕は急いで、荷物を持って旅立った。
もうすぐ好きな人と会えるのを、楽しみにしながら。
END.