「おかえり志季っ!待ってたぞ!!」
「………。」
「なんだよー、志季、何で黙ってるんだ?」
「べ、別に…。」
バレンタインデーからちょうど1ヶ月、帰宅した僕を待っていたのは、必要以上に笑顔を振り撒く虎太郎だった。
そう、今日は3月14日、世間で言うホワイトデーというやつだ。
バレンタインデーでさえあれだけ僕は振り回されたのに、どうしてセットみたいな日が作られてしまったのだろう。
イベントに慣れていない僕は、またしてもここ数日、悩みに悩んでしまった。
それと言うのも、1ヶ月前にあんな発言をしてしまったからだ…。
「じゃあ志季、風呂入って来て!」
「はぁ?!帰った途端何なの?!まだこんな時間にお風呂なんか…。」
「何なのって志季、忘れたのか?志季が言ったんだぞ?ホワイトデーは絶対交尾しようねって!」
「そ…そそっ、そんなこと言ってないっ!!」
バレンタインデー当日、虎太郎はアルバイト先のケーキ屋で一日中働いて、ヘトヘトに疲れて帰って来た。
帰って早々玄関でエッチな行為に及ぼうとしたところ、僕は全力で阻止した。
だってまだ数えるぐらいしかそういうことをしていないのに、心の準備も身体の準備も出来ていなかったのだ。
せめてちゃんとお風呂に入って、綺麗な布団の上で…なんて考えるのは、別におかしいことではないと思う。
むしろ僕にとってはそれが普通で、隣のバカップルみたいにいつでもどこでも…なんて考えられなかった。
それがお風呂から上がって戻って来ると、虎太郎はすっかり眠ってしまっていた。
僕としては気を遣ってそのまま寝かせてやったのに、次の日の虎太郎はエッチが出来なかったと散々文句をたれた。
『ホ、ホワイトデーは寝ないでよねっ!』
結果として僕は、虎太郎にこんな台詞を吐いてしまったのだ。
それはつまり、直訳すると虎太郎が言っていた意味になってしまうのだけれど…。
「言った!俺、今日が来るのすっごい楽しみにしてたんだからな!」
「バ、バカっ!!たったたた楽しみとか言わないでよっ!!」
「何でだよ、楽しみは楽しみなんだからいいだろー?せっかく志季がしてくれるって言ったのに…。」
「たっ、確かにそう取れるようなことを言ったかもしれないけど…!」
虎太郎はなんと、この日のために休みまで取っていた。
ホワイトデーだってバレンタインデーと同じぐらい忙しいんだからそんなことはしちゃダメだと言ったけれど、既に遅かった。
店長に話したところ、その日は店長の弟とその奥さんが来るから大丈夫だと、快諾してくれたらしい。
そこまでしてもらって、やっぱり休みはいりませんなんて言う方が申し訳ないのだと押し切られたら、何も言えなくなってしまった。
「え…、もしかして志季、してくれないのか…?そっか…やっぱり志季は俺のこと…。」
「な……っ!」
俺のこと、嫌いなんだ。
最後まで言わなくてもわかるぐらい、虎太郎は落ち込んだ表情を浮かべていた。
例えこれが作戦だったとしても、こんな顔をされたら、罪悪感を感じてしまう。
だからと言って、うんわかったお風呂に入って来るからエッチしよう?なんて言えるわけがない。
「志季ぃ~…。」
「7時間半もあるでしょ…。」
「志季?」
「まだ今日は7時間半もあるって言ってるの!おとなしく待ってたらどうなのっ?!」
墓穴を掘るって、こういうことを言うんだろうか…。
その後の虎太郎は僕に言われた通り、エッチを仕掛けようとはしなかった。
食事をするにしてもテレビを見るにしても、何をするにしても終始笑顔で、それが逆に僕の羞恥心を増幅させてしまう。
まるで「おとなしくしているからご褒美ちょうだい♪」と言っている猫みたいで…(確かに元は猫だけど)。
「こ、虎太郎これ…。」
「ん?何だ?」
そして時計の針は午後9時を回り、今日という日はあと3時間を切ってしまった。
僕は自分の部屋に置いてあった紙袋をリビングへ持って来ると、勇気を振り絞って虎太郎に渡した。
「し、仕方ないからあげる!一応もらったからお返しって言うの?あげないと何か言われると思ったしね!」
「あ!ホワイトデーの?!うわー、嬉しいな!もしかして今日出掛けたのってそれでか?」
「ち、違うよっ!他に買いたい物があったからついでに買って来たの!ついでにね!!」
「なーんだ、ついでかー。へへっ、でも嬉しい!志季が俺のために選んで買って来てくれたんだもんな!」
そんなの嘘に決まってるでしょ…。
他に買いたい物なんてなかったし、実際これ以外に何も買って来ていないんだから。
混雑するホワイトデー特設売り場を何時間もウロウロして悩んで、そりゃあもう大変だったんだから。
最終的に選んだ猫型のクッキーを買う時だって、物凄く恥ずかしかったんだから。
そう言ってやろうかと思ったけど、調子に乗るから嘘を吐いただけだよ…。
「じゃあ志季、ちょっと待っててくれ!」
「え……?な、何?どこ行く…。」
もっと感動に浸ってしつこく絡んで来るかと思っていたのに、虎太郎は突然ソファから立ち上がると、部屋を出て行ってしまった。
こんな時間にどこへ行くつもりなのかわからずに呆然としていると、数分後には白い箱を手に戻って来た。
「へへっ、俺もお返し!」
「お、お返しって…。僕のは…あれはあげたわけじゃ…。」
スーパーでもコンビニでも駅の売店でも、どこにても売っている、板のミルクチョコレート。
自分が食べたいから買ったと誤魔化したけれど、あの時の僕が虎太郎にあげられる精一杯だった。
それをわかっていたのか虎太郎はお守りにするだなんて言って、本当に暫くの間はバッグに入れて持ち歩いていた。
やっとのことで食べると決意して開封した後も、一日一粒ずつと決めて、大事そうに食べていた。
僕はそれだけでもう良かったのに、まさかお返しまで用意しているなんて思わなかった。
「こないだのケーキのホワイトデーバージョンなんだって。またてんちょーさんに教えてもらって作ったんだー。」
「ふ、ふぅん…。」
「志季に見つからないように昨日持って帰って来て、志摩に預かってもらってたんだ。」
「そ、そう…。」
真っ白なハートのケーキの上には、小さな赤とピンクのチョコレートが載っている。
おそらくバレンタインデー限定ケーキとはデザインが一緒で色違いなのだと思う。
だけど1ヶ月前よりも綺麗に見えるのは、虎太郎の腕が上がったせいなのか、僕の感動が大きいせいなのか…。
「はいっ、志季!あーん?」
「え!い、いいよ…自分で食べ……むぐっ!」
後者が正しかったのか、僕はどうやらぼうっとして浸ってしまっていたらしい。
その隙を突いて、虎太郎がケーキを一切れ、僕の口元に差し出した。
自分で食べられるからいい、恥ずかしいことしないで、断る前に突っ込まれたケーキは、バレンタインデーの時よりも甘く濃厚に感じる。
「志季、美味いか?」
「お、美味しい…んじゃない?」
「そっか、よかった!へへっ、志季に喜んでもらえて嬉しい♪」
「べ…別にそんなに喜んでなんか…。」
柔らかいスポンジと上にかかったホワイトチョコレートクリームが、僕の口の中で混ざり合う。
スポンジの中には甘酸っぱいベリーのソースが挟まっていて、クリームとのバランスがちょうどいい。
お世辞なしに美味しいケーキは、すぐにでも全部平らげてしまいそうだ。
「志季ぃ、俺もうそれでいいから…。」
「え……?」
「ホントは交尾したかったけど…したくてしょうがなかったけど…、なんか志季が喜んでくれたらそれでいいって思えて来て…。」
「虎太郎…?」
「それに志季は交尾するのあんまり好きじゃないし、俺も無理にしないって前言ったのに…ごめんな?」
「な、何それ…。」
何それ、何を言ってるの?
僕がエッチが好きじゃない?誰がそんなこと決めたの?いつそんなことを言った?
張り切って休みまで取って、僕が帰って来たらすぐにしようとまでしたくせに、今頃になって何を言ってるの?
僕だって1ヶ月前のあの時から…あんなことを言ってしまってから、ずっとドキドキしてたのに。
虎太郎みたいにどうしてもしたい!って思ってたわけじゃないけど、僕だってそれなりに色々考えてたんだから…!!
「だから志季…むぐっ!!し、志季?」
「こ、これ半分食べていいよ!」
「え?志季…?でもこれは志季にあげたやつで…。」
「僕一人じゃ全部食べられないから!いい?半分だけだからね?全部食べたら許さないんだから!」
僕はさっきと同じぐらいの大きさの一切れのケーキをフォークに刺して、虎太郎の口に突っ込んだ。
だってもうお腹がいっぱいで…さっきまで全部食べられると思っていたのにいっぱいで…。
虎太郎に対する思いが溢れて、とても食べ切れないと思ったから。
「し、志季?どこ行くんだ?」
「お、お風呂…。」
「え?あの…。」
「お、お風呂に入って来るから…、きょ、今日はその…、ねっ、ねねっ、寝ないでよねっ!!」
いくらバカな虎太郎でも僕の言った意味がわかったらしく、目をまん丸に見開いたまま、言葉も出なくなっていた。
それはそうだ、あんなに拒否しまくっていた僕の方から誘うようなことを言ったんだから。
「うぅ…、も……ダメかも…。」
言った側の僕はと言うと、バスルームのドアを閉めた途端、足元から崩れ落ちてしまった。
ドキドキはどんどん大きくなるばかりで、上手く呼吸が出来なくて息が苦しい。
久し振りの感触を想像しただけで身体が熱くなって、もう他に何も考えることが出来なくなっていた。