「ただいまぁ~、志季ぃ~。」
虎太郎がアルバイトを終えて帰宅したのは、ケーキ屋の閉店時間をもとっくに過ぎた、夜の11時近くだった。
バレンタインデーは大忙しで大変だとシロから聞いていたみたいだけれど、それが本当だということは、ヘトヘトになった虎太郎の姿が証明していた。
あまりにもひどい声だったので玄関まで見に行くと、髪はボサボサ、目はしょぼしょぼになって、いつも元気な虎太郎とはまるで別人みたいだった。
「あ~、志季ぃ~…。」
「そ、そんなところで倒れてないで早く中に入りなよっ。風邪でもひかれたら迷惑でしょっ?」
「うん…ごめん…。」
「ご、ご飯は?志摩がバレンタインディナーだって張り切ってたけど、その様子じゃ食べれなそうだねっ。」
今日はバレンタインデーだから~と志摩が作ったのは、あらゆるところにハートが飛んでいる、恥ずかしい代物だった。
メインはハート型のハンバーグ、サラダやスープに入っている野菜もハート型、ご飯までわざわざハート型のおにぎりになっていた。
デザートのいちごプリンももちろんハート型で、色がピンクだから余計恥ずかしい。
ここまで頑張ってくれたのに悪いけれど、食べるのは明日になりそうだと思った。
そう思ってたのに、ムクッと起き上がった虎太郎からは、意外な答えが返って来た。
「食べる!!」
「え……?た、食べる…の?」
「うんっ、せっかく志摩が作ってくれたんだろ?食べる!わぁー、ハート型だ、可愛い!!さすが志摩だな~♪」
「な……っ。」
何それ…せっかく志摩が作ってくれたから?
志摩が作ったものなら、いつでもどんな時でも、何でも食べるって言うの?
さすが志摩って何?!
確かに僕は料理が出来ないし、可愛い物を可愛いと言うことだって出来ないよ!
だけど今日一日…ううん、このところずっとバレンタインデーのことを考えていたし、虎太郎を待ってご飯も食べないでいたんだよ…?
虎太郎が疲れて食べられないなら、僕も一緒に明日の朝にしようかと思ってたのに…!
それなのに志摩の名前を出した途端元気になるなんて…。
いくら元飼い主だからって、そんなに志摩志摩って言われたら、僕が面白くなくなるって考えないの…?!
「あれ?志季もしかして食べないで待っててくれ……ぶっ!!い、痛っ!!」
「待ってなんかないっ!!僕が先に食べたら文句言われるかと思っただけ!!虎太郎の大好きな志摩が作ったご飯だからねっ!!」
「志摩のことは好きだけど…。志季、もしかしてやきも…。」
「う、うるさいうるさいっ!!僕もう寝るからっ!!」
「えぇ?!そんな…!あれ…?志季、これってチョコじゃないのか?バレンタインだから?」
「ちっ、ちちち違うよっ!!そそっ、それは単に甘い物が食べたくなって…!!ぼっ、僕が自分で食べようと思って買って来たの!!」
僕が虎太郎の顔面に投げ付けたのは、スーパーでもコンビニでも駅の売店でも売っている、100円前後の板チョコレートだ。
あの後色々考えたけれど、どうやっても自分で作ることは出来なくて、かと言ってデパートにも買いに行けなくて…。
コンビニで売っているバレンタイン用のチョコも恥ずかしくて買えなくて、でもどうしてもあげたくて…。
結局選んだのが、何の変哲もない普通の板チョコレートというわけだ。
それでもミルクにしようかブラックにしようかホワイトにしようかいちごにしようか悩んで、虎太郎は甘いのが好きだからミルクに決めた。
安物でどこでも売っている物だけれど、用意するまでは随分と時間がかかった。
「へへっ、ありがと志季!志季からもらえるなんて思ってなかったから嬉しい!」
「だ、だから違うって言ってるでしょ…!」
「これ、しばらくおまもりにしよ~。カバンに入れて持ち歩くんだっ!」
「バ、バカじゃないのっ?!そ、そういう恥ずかしいことしないでよね!っていうかあげてないし!!」
これが今の僕の、精一杯だった。
周り(特に隣のバカップル)から見れば大したことでなくても、僕にしてみればかなりの成長だ。
イベントが嫌いで、ベタベタするのが嫌いで、プレゼントをするという行為自体が慣れていなくて苦手で…。
ここまで頑張ったんだから、素直に認めるのは、もうちょっと待って欲しい。
少しずつでも先へ進んで行くって、進んで行けるように頑張るって約束するから…。
「実は俺も、志季にあるんだ~。はいっ、これ!」
「え……?な、何…?」
「ん?バレンタインのチョコ!あっ、ケーキだった!てんちょーさんに教えてもらって作ったんだ。」
「つ、作ったの…?」
「あの限定のやつは難しいから、ちょっと簡単にしたんだ。食ってみて、志季!」
「し、仕方ないなぁもう…。」
倒れていた虎太郎の傍にあった小さなピンク色の箱の中から出て来たのは、ハート型のチョコレートケーキだった。
この間虎太郎が志摩に説明をしていた、バレンタインデー限定ケーキに、確かによく似ている。
表面にはチョコレートクリームがたっぷりと塗ってあって、上には小さなピンクのハートが載っている。
「どう?どう?志季、美味いか?」
「ちょっとっ、まだ食べてな……。」
「志季~、どう?俺にしては上手く出来たと思うんだけど!」
「さ、さぁ…?ちょ、ちょっと甘いんじゃない?」
あの店のケーキは、何度も食べたことがある。
いつもは店長がほとんどの工程を担当していて、虎太郎やシロは時々飾り付けを手伝うぐらいだそうだ。
それをこんな忙しい中で僕なんかのために時間を割いて、一から手作りして、ヘトヘトになって持って帰って来てくれた。
多分僕はそんな虎太郎の思いが嬉しくて、胸がいっぱいになってしまったのだと思う。
決して甘過ぎないしくどくもないクリームが、こんなにも胸やけするほど重たく感じるのだから…。
「そうか~?俺も食べてみたいなぁ…。」
「ぼ、僕にくれたんでしょ?これは全部僕が……んぅ!!ん……、ふぅ…っ!」
「ホントだ…甘いかも…。」
「なっ、ななっ、ななな何するの……?!あっ、バカぁっ!な、何すん……んんっ!」
しまった、油断をしていた…。
虎太郎の思いが嬉しくて、ときめいている場合じゃなかった…!
僕がどこか別の場所へ行きそうになった隙を狙って、虎太郎は唇を舐めて来たのだ。
おまけに服の中に手まで突っ込んで、のんびりケーキなんか食べている余裕なんてなくなってしまった。
「志季の口、甘い…。」
「ちょ……んっ、んんっ、や……!ど、どこ触って…っ!!」
「ん?志季のおっぱい!ここも甘いぞ?」
「バババッ、バカっ!!変態猫っ!セクハラ猫っ!エロ猫っ!!や……やだぁっ、あ……っ!!」
僕は思わずケーキの箱を床に置いて、虎太郎から逃げようとした。
だけどもう虎太郎は僕の上にしっかりと乗って来て、逃げられる状態ではなかった。
追い掛けて来る唇から顔を背けようとすれば手の方が胸の辺りを撫で回し、あっという間に背中から床に倒れ込んでしまった。
「志季ぃ、交尾しよー?」
「バカぁっ、こ、こんなところで何言って…!」
「志季はやなのか?俺と交尾するのやなのか?俺のこと嫌い?」
「そ、そういうこと言ってるんじゃないの…っ!!」
「いって!!な、何するんだよー!!」
「そ、そういうこと言ってるんじゃなくって…っ!!」
嫌いだったらあんなにチョコレートのことで悩んだりしない…!
嫌いだったら家の中になんか入れないし、一緒に住むなんてもってのほかだ。
僕は思い切り虎太郎の頭や胸元を叩きまくって、息を切らせながら、何とか虎太郎の腕の中から逃れた。
「志季ぃ~…。」
「こっ、こういうところでしたくないっって言ってるの!!」
「え……!じゃ、じゃあ…。」
「おっ、おおおお風呂入って来るっ!!」
何てことを口走ってしまったのだろう。
きっと今頃虎太郎は、バスルームに向かって一人で目をキラキラさせているに違いない。
だけど僕だって、したくないわけじゃないんだ…。
率先してやろうとも思わないけれど、虎太郎が好きな気持ちが膨らんで、触れて欲しいと思う時だってある。
「は、恥ずかし…っ、何これ…っ。」
僕は初めての恋のせいで、自分がこんなにも変わってしまっていることに気付いた。
くっ付かれるのもしつこくキスされるのも、ましてやエッチなんてするまでは恐くて仕方がなかったのに…。
ドキドキバクバク言ってうるさい心臓の音が、ドアの向こうの虎太郎にまで聞こえてしまいそうだった。
***
「って言ったのに、ひどいんだぞ志季ってば!!」
「虎太郎のことを思って起こさなかったんだよね?志季?そうだよね?!」
翌日、いつものように隣の家で朝ご飯を食べている間、虎太郎はずっと膨れっ放しだった。
昨晩あれから僕がお風呂を済ませて部屋に戻った時には、虎太郎はスヤスヤと寝息を立てていたのだ。
だけど志摩が言うように、起こさなかったわけではない。
一度は起こしたものの、半分眠っているようなフラフラ状態で、布団まで移動するのが精一杯だったから、その後は寝かせてやったのだ。
「あーあ…、せっかく志季がお風呂に入ったら交尾してくれるって言ったのに…。」
「な……!そ、そんなこと言ってないっ!!」
「えー?!言ったぞ?玄関じゃなきゃいいって!!」
「それも言ってない……っていうかそんな話ここでしなくていいからっ!!」
「なんだよー、そんなに怒るなよー。もーう、交尾の時はあんなに可愛いのになぁ…。」
「だっ、だからそういう話はしないでって言ってるでしょっ!!バカッ!!」
志摩が恥ずかしそうにしながらも、ヘラヘラ笑ってるじゃないか…!
隼人は隼人で、関心のなさそうな振りをして、時々チラリと向ける視線がいやらしいと言うか…何だか変態っぽいし!
僕はこの二人にラブラブカップルだとか思われるのが、一番嫌なのに!!
「隼人ー、こないだ隼人が言ってたみたいに、志季が何か食べるとこ狙ったけどダメだったぞ?志摩はすぐえっちになるのにな!」
「ぶ……!」
「こっ、虎太郎ってば何言ってんの…?!」
「ちょ…、な、何それっ?!」
「隼人に相談したんだ、志季とどうすれば交尾出来るかって。俺、頑張ったのになぁ~…。」
「お、お前な…そういうことは黙って…。」
「隼人そんな話したの?やぁー、お、俺恥ずかしいよー!!」
「バカじゃないのっ?!僕はそんな…、隼人が考えた変態作戦なんて絶対乗らないんだからねっ!!ご馳走様っ、お邪魔しましたっ!!」
僕は結局いつものように怒って、出て来てしまった。
バカみたい、隼人にそんな相談をするなんて…。
だけどそんな相談までするほど、僕とエッチがしたかったの…?
虎太郎はそんなに僕のことを…。
「しょうがないなぁ、もう…。」
僕は諦めたような溜め息を吐いて、もう一度玄関のドアを開けた。
そこにはしゅんとした虎太郎がいて、僕の後を追おうとしているところだった。
「あっ、志季…。」
「ホ、ホワイトデーは寝ないでよねっ!」
「えっ?!志季、そ、それってもしかして…!!」
「いいからもう戻って!ちゃんとご飯食べて来てよっ!じゃないと後で腹減ったーってうるさいんだから!」
僕は今度はゆっくりとドアを閉めて、その場に寄り掛かった。
またドキドキうるさい心臓の音の向こうでは、虎太郎の「やったー」という叫び声が聞こえて、また恥ずかしくなってしまった。
END.