2月14日のバレンタインデー、俺は恋人の紫堂さんに、チョコレートを渡した。
男が男に手作りだなんて、直前になってとんでもなく恥ずかしいことだと気付いて躊躇していた俺の予想を裏切るかのように、紫堂さんはバカにすることも笑うこともなく、素直に喜んでくれた。
その後俺は紫堂さんに腕を引っ張られ、マンションの中にある音楽室で、お返しをもらった。
紫堂さんにしては珍しい、甘さ100%のラブソングだ。
あの有名なミュージシャンの「ミヅキ」が、俺だけのために歌ってくれたのだ。
それからもう一つ、恋人の俺しかもらえないとっておきのお返しを、一晩中かけて渡してくれた。
「その日はライブなんだよ。だから今やる。」
通常お返しというのは3月14日に渡すものだけれど、あの場で渡すことになったのには、理由があった。
ファンの子達にバレンタインデーにトラック1台分ものチョコレートをもらった紫堂さんは、ホワイトデーにお返しとして、ライブをやることが決まっていた。
だからてっきり俺は、3月14日は紫堂さんと一緒に過ごすことはないと思っていたのだけれど…。
「は?バイト?何でそんなもん入れてんだよ。」
「え……!だ、だって…紫堂さんライブがあるって…。」
「だからそのライブに来いっつってんだろうが。」
「でもあの…俺、お返しはもうもらっちゃったし…。」
前日になって、俺は紫堂さんから、そのライブに招待されてしまった。
もちろん俺はライブに行くことなんてないと思っていたから、スーパーのアルバイトを入れてしまっていた。
「あれはあれ、これはこれだろ。お返しは1回って決まりでもあんのか?」
「決まりなんてないですけど…。でも…。」
「じゃあ何だよ?いらねぇとでも言うのかよ?」
「い、いらないなんて言ってないですよ!そんなこと思ってないですよ~!」
「じゃあ決まりな。若知ってるだろ?あいつにスタッフ専用口にいてもらうから、そっから入って来い。」
「は…はぁ……。」
「若」というのはマネージャーの若林さんという人のことだ。
何度かマンションまで紫堂さんを迎えに来たり送って来たりしたことがあるから、挨拶はしたことがある。
紫堂さんがどこまで言っているかはわからないけれど、俺が紫堂さんとそういう関係だということも知っているらしい。
あのミヅキが一般人と、それも同性と付き合っているだなんて、世間にバレたら絶対に大変なことになる。
マネージャーという立場から、「別れてくれ」なんて言ってくるかもしれない。
そんなこともあって、若林さんに会うのは少しだけ気が進まなかったりするのだ。
「よし、んじゃあ明日に備えて早めに寝るとするか。」
「え…?ま、まだ10時ですよ…?」
「何だ悠真ぁ、まだ寝たくないって?これから何かしてぇのか?」
「ち、違いますよ…!た、ただいつもより早いっていう意味で言っただけです…!」
「悪ぃな、期待に応えてやれなくて。でもそうだなぁ、せっかく悠真が誘ってくれたしな…。そんなにしてぇなら1回ぐらい…。」
「さ、誘ってなんかないで……わああぁっ!ど、どこ触ってんですかっ!も、もう寝ますよっ!!」
紫堂さんは悪戯っぽく笑って俺の腰元を撫で回そうとしたけれど、俺に抵抗されるとすぐに諦めて、頬を膨らませていた。
だけど俺は最初から、この先何もないことがわかっていた。
普段はこんな風にふざけたりするのが好きな紫堂さんでも、ライブの前の日は違う。
絶対に夜更かしなんかしないし、喉を気遣っていつもより念入りにケアをしている。
自分の仕事を大事にしているというのが、傍にいると物凄くよくわかるのだ。
もし今「そんなところも好きなんです」と言ったとしても、いつもみたいにエッチに発展することはないだろう。
「じゃあおやすみ、悠真。」
「お、おやすみなさい…。」
一度腰から離れた紫堂さんの手が、今度はふわりと優しく俺を抱き締めた。
そして俺の前髪を掻き上げて額にそっと触れるだけのキスをすると、肩だけをくっ付けてさっさと目を閉じてしまった。
布団の温かさよりもずっとずっと温かい紫堂さんの体温を感じながら、俺はすぐに眠りに就くことが出来た。
***
翌日になって俺は、アルバイト先のスーパーに電話をかけた。
風邪だと嘘を吐いたのはさすがに罪悪感を感じてしまったけれど、店長は案外すんなりと休みをくれた。
既に紫堂さんはマンションにはいなくて、俺は夕方になるまでのんびりと過ごした。
「悠真くん、出かけるの?」
「わ…!は、遥也くん…!えっと、紫堂さんのライブに招待されて…。」
「ふぅん…そうなんだ。」
「あ、遥也くんも行く?紫堂さん、いや、若さんに言えば多分大丈夫だと思うから…。」
そろそろマンションを出ようかと玄関で靴を履いていると、後ろから突然声がした。
遥也くんがこんな風に気配もなく近寄って来ることに慣れることは出来ないし、その表情は相変わらず読めない。
遥也くんが何を言いたいのか、何をしたいのか、いまだにまったくわからないままだ。
「いい。」
「そ、そっか…。」
それからこの会話の成り立たなさにも、慣れることは出来ずにいた。
マンションに来てから随分と経つけれど、この先も遥也くんとはこんな感じなのだろうか…。
「健太くんと裕巳くんはお泊まりデートなんだって。」
「そうなんだ!じゃあ遥也くんと翠さん二人っきりだね。」
「うん、これから翠さんにバレンタインのお返しの料理作るんだ。」
「そっかぁ…、頑張ってね!」
俺の不安を掻き消すかのように、遥也くんは穏やかな表情を浮かべていた。
こういう顔を見せる回数が、前よりもずっと増えたなら、もっと仲良くなれるかもしれない。
俺は少しだけホッとしながら、玄関の扉に手をかけた。
翠さんの方がバレンタインデーのチョコレートを渡した…というのが面白くて、笑いそうになりながら。
「うん、頑張る。」
「じゃあ俺、もう行くよ。門限までには帰るから、翠さんに言っておいてくれる?」
「うん、行ってらっしゃい。でも二人で盛り上がっちゃったら我慢しなくていいからね。」
「も、盛り上がるって何…?!が、我慢って…!!」
「だってバレンタインの時もそうだったでしょ。どこかに泊まるなら連絡くれれば大丈夫だと思うよ。」
「う…うん、わかった…。い、行って来ます…。」
前言撤回だ。
やっぱり仲良くなるなんて、無理かもしれない。
バレンタインデーの時のことを、こんなところで出されるなんて、まだまだ俺は甘かった。
俺は小さな溜め息を吐きながら、マンションを後にした。