「はんばーぐ、はんばーぐっ!」
「空は本当にハンバーグが好きなんだなぁ…。」
「うんっ!すきー。くーね、はんばーぐだぁいすきなの!」
「そっか…。」
俺のことは…?
俺のことを好きだと言ったのも、そのハンバーグと一緒なのか…?
一緒にいたいのも、その好きなハンバーグを食べさせてくれるから…?
あれほど空が大人になるのを待とうと決意したのにもかかわらず、俺の心は逸る気持ちでいっぱいだった。
「たのしみだね、はんばーぐ!」
「そうだな…。」
空の小さな手をしっかりと握り締めることで、俺はその不安定な気持ちを何とか落ち着かせていた。
まだ空は子供だ、もう少し待とう。
恋の存在と意味を知るまで、待たなければいけない。
それが空と一緒にいるための、俺に課せられた義務と責任というものだった。
ファミリーレストランへ行く前に、俺達はいつも行くデパートへ立ち寄った。
まだ空が来て十分に物も揃っていなくて、この日は昼寝用の小さな毛布を買おうと思っていたのだ。
寝具売り場のある2階へとエスカレーターで昇る間も、空は俺の手を離すことはなかった。
「空はどれがいいんだ?オイシインジャーか?それともこのくまさんが…。」
「あきちゃん…。」
「お、この車もカッコいいな…これにするか、空?」
「あきちゃん…こいのぼりはー?」
「え……!」
「こいのぼり、どこにあるの…?」
ハンガーにかかった毛布を手に取って選んでいると、空が隣で不安げな声を上げた。
眉をひそめて目を潤ませて、こいのぼりへの思いがよほど強かったのだろう。
もう忘れていたと思っていた俺が、バカだった。
よく考えてみれば空は我儘な上、頑固だったのだ。
違う話をして誤魔化せたと思っても、それを突き通せるわけがなかった。
「そ…それは後で…。」
「あとでっていつ?くーね、いまがいいの。」
「空…あんまり我儘言うなよ…。」
「だって…あきちゃんさっきいったもん、こいのぼりやってくれるっていったもん…!」
やっぱりあんな作戦はやめておけばよかった。
今頃になって後悔してももう遅くて、空の心はもうこいのぼりだけに向かっていた。
今の今までハンバーグで盛り上がっていたのに、どうしてこんなところで言い出すんだ…。
俺は汚い手を使った自分を棚に上げて、空への苛立ちを募らせた。
「い、今こんなところじゃできないんだって…、ほら、これでいいか?これにしようオイシインジャーのやつ…な?空!」
「やっ!こいのぼりー!」
「や、じゃないだろ?我儘言うんじゃ…。」
「やだぁー…こいのぼりー…う…ふえぇ、こいのぼ…ひっく…ふええぇーん…!」
空はデパートだということも忘れて、床に座り込んで声を上げて泣いてしまった。
駄々をこねて店内で泣いている子供を見かけることはよくあるが、まさか自分がその当事者になるなんて思ってもみなかった。
一緒にいる親は何をしているんだ、なんて思っていたけれど、何も出来ずにうろたえる気持ちが今になってやっとわかった気がする。
「だ…だからそれは後でって…ほら、これにするからなっ?レジ行くぞ、空。」
「やだあぁー…こいのぼりー…あきちゃ…ひっく、こいのぼりー…!」
「空っ、いい加減にしないとママに言い付け……。」
「うっうっ、えぐ…あきちゃ…ふえぇ…。」
俺は手にしていた戦隊ものの毛布を持って、無理矢理空を立たせて手を引いてレジへと向かった。
その時数人が並んでいたレジを目の前にして、視界に大きくて派手な貼り紙が飛び込んできた。
「空、こいのぼり…やろうか…。」
「ふぇ…?あきちゃ…えっぐ…っ。」
「いいからこっち、もう泣くなよ…な?」
「あきちゃんー…?」
俺は空の頭をポンポンと優しく叩いて、頬を流れる涙を手で拭ってやった。
そしてレジが自分達の番になると、毛布を置いた手でその貼り紙を指差した。
「いらっしゃいませー、こちら一点ですね?」
「あの…、これ…まだありますか…?」
「あ…はい!まだございますよー。はい、どうぞ!」
「ほら、空…。」
それはその店独自でやっている、子供の日のサービスが書かれた貼り紙だったのだ。
玄関では無料で柏餅が配られ、食料品売り場ではお菓子のプレゼント、生活雑貨や玩具などの売り場がある2階では2000円以上買い物をすると小さなこいのぼりがもらえるとあった。
俺がそのことを言うと、レジの下から若い女の店員がそれを出し、空の小さな手に握らせてくれた。
「こいのぼり!あきちゃん、こいのぼりだよ?!」
「空、嬉しいか?」
「うんっ!やった、こいのぼりっ、くーのこいのぼりー♪」
「よかったな…。」
空がもらったこいのぼりは、近所の屋根に飾られたものとは程遠い、小さな玩具のこいのぼりだった。
お情け程度にくっついた吹流しなんて、今にも切れてしまいそうだ。
おまけに普通なら親子で三匹並んでいるはずの鯉が、真ん中の緋色をしたお母さん鯉だけいなくて、あくまで配布用と言わんばかりのものだ。
「良かったねぇ、優しいパパだねー。」
「うんっ!よかったの!あ…でもあきちゃんはパパじゃないよ?」
「そ、空…。」
「あ…し、失礼しました…!てっきり親子だと…!」
「あ……い、いえ…。」
「あきちゃんはねぇ、パパじゃなくてあきちゃんなの!ねー?あきちゃんっ!」
すっかりご機嫌になった空は、わけのわからないことを言っていた。
もちろんわけがわからないのは、この俺を除いた人間に、という意味でだ。
パパではないなら、兄弟とでも思われただろうか。
それとも本来の関係…叔父と甥っ子だと思われただろうか。
いずれにしろ誰も本当の俺達の関係を、秘密のことを知らない。
「900円のお返しになります!ありがとうございましたー。じゃあね、またね?」
「うんっ、ばいばい!」
「ばいばい。」
「あ…!こいのぼり、ありがと!くーこれだいじにするね!」
俺は早くこの場を立ち去りたくて、銀色のレジ袋に入れられた毛布を持ってさっさとレジを離れた。
空はふと立ち止まり、一度レジに戻って店員にお礼を言ってまた俺の元へ走って来た。
手にはすぐに壊れてしまいそうな、安っぽいこいのぼりを握って。
それから俺達はファミリーレストランに行くのをやめ、デパートのすぐ近くのファーストフード店でハンバーガーなどを買い込んだ。
あまりにも空が楽しそうで、レストランなんて狭いところより、大空の下で伸び伸びと食事をしたい気分だったからだ。
「わぁー!あきちゃん、これなかにはんばーぐがはいってるよ!」
家の近くの川原で、空は初めて見るハンバーガーに、目をキラキラさせていた。
そんなもので感動出来るなんて、そういうところが純粋だと思う。
姉にはちゃんとしたものを食べさせろと口を酸っぱくして言われていたけれど、空が喜んでくれるならたまにはこういうご飯もいいのかもしれないと思った。
「あきちゃ、んぐ…おいひーね!」
「そうか、よかった…。」
「だってね、はんばーぐがふたつもはいってるの!くーね、はじめてたべたよ!」
「うん、よかった…。」
空は大きく口を開けて、一生懸命になってハンバーガーを食べていた。
ケチャップやソースが口の周りに付いてしまうことも気にせずに食べるその姿が、豪快で気持ちがいい。
空が来てすぐの頃、アイスクリームを食べた時もそうだったけれど、俺も昔はこんな風だったんだな…と思い出す。
「おなかいっぱいー。」
ハンバーガーとポテトを半分こしたものを、空はすぐに平らげてしまった。
そして深呼吸した後濃緑の上にごろんと寝転がって、小さなこいのぼりを空にかざしている。
「やねよーりーたーかーいこいのーぼぉーりー♪」
俺はそんな空を見て、ハンバーガーなんかいらないほどお腹がいっぱいだった。
こんな風に俺の傍で笑ってくれるなら、やっぱり急ぐ必要なんてない。
子供の日に親が自分の子供の成長を願うように、俺も空が大人になるのを待てばいい。
そしてその傍にいつでも自分がいられるように…。
「おおきーいー…あれ?うんと…。」
「空?忘れちゃったのか?」
「おおきーいこいさんはーあきちゃんですー、ちいさいこいさんはくーなのーよー♪」
「ぷ…なんだそれ…。」
歌詞を忘れた空が歌ったのは、自分達の歌だった。
突然出て来た空の歌詞に、俺は思わず吹き出してしまった。
だけどそれは決して適当なんかじゃなくて、今の空の気持ちを正確に表している。
俺と一緒にいたい、ずっと一緒にいたい…俺を好きなんだと。
「空…ごめんな…?」
「あきちゃん…?どしたの?」
俺は罪悪感に苛まれ、寝転がる空の頭を撫でながら素直に謝った。
空には卑怯な手が通用しない。
どこまでも澄んだこの青空のように純粋な空に、言い訳や誤魔化しなんてことはしてはいけなかったのだ。
これは俺の、心からの反省を込めた謝罪だ。
「大きいこいのぼり…あげられなくて…。」
「ううん、おっきいよ?」
「え……?」
「えへへっ、みて!あきちゃん!」
「わ…!空…?」
「ほらね、おっきいよ?くーのこいのぼり、やねよりたかいの!」
空はそんな俺の思いをまったくわかっていないのか、絶え間ない笑顔で俺の腕を引っ張った。
勢いよく草の上に落ちた俺が見たものは、青空の中で悠々と泳ぐ二匹の鯉だった。
ところどころにある雲なんか取り払ってしまうぐらい、堂々としている大きな鯉に見える。
「ホントだ…。」
「えへへ、やねよーりーたーかーい…。」
あんな安っぽいものでも、空が持てばどんな鯉よりも大きくて特別なものに変わる。
それはただの小さな甥っ子でも、恋という気持ちがあれば大事な存在になるのと同じだ。
俺はまた歌い始めた空の小さな手を強く握り締め、この手を離さないと心に誓った。