季節は穏やかな春も終わりにさしかかり、もうすぐ湿った空気を運んで来る梅雨を控えていた。
世間一般的にはゴールデンウィークと呼ばれる連休のある一日になると、毎年思い出すことがある。
今年もその日がやって来ると、俺はその思い出に浸りながら、隣でまだ眠る空の髪を優しく撫でてベッドから降りた。
「あつー…。」
リビングに一歩足を踏み入れると、大きな窓からは眩しい太陽の光が差し込んでいた。
まるで梅雨を待たずに夏が来てしまったかのような部屋の温度に、俺は思わずエアコンのリモコンを手に取った。
「………。」
さすがにまだ冷房は早いかもしれない…。
自分はいいとして、空の身体が冷えて風邪なんかひいてしまったら大変だ。
俺はふとリモコンを握る手を止め一瞬考えた後、結局スイッチを入れずに窓の傍まで歩み寄った。
「ふー……。」
思い切り窓を開けて、部屋より幾分か涼しい空気を胸いっぱいに吸い込む。
こうすればまだ冷房を入れる必要なんてない。
気分まで清々しくなれるし、一石二鳥というやつだ。
「あ……。」
窓の向こうには、住宅地が広がっている。
その幾つかの屋根の上で、気持ちよさそうに大きなこいのぼりが空の中を泳いでいる。
俺は窓から一旦離れて、本棚の一番下にある引き出しを開けた。
そこには今見たこいのぼりと比べると話にならないぐらい小さなこいのぼりが、何体も静かに眠っていた。
***
あれは空が俺のところへ来て一緒に住むことになった10年前のことだった。
俺はまだ大学生で、空はまだ幼稚園児だった。
俺は既に空への感情が恋だということをはっきりとわかっていたけれど、空のほうはまだちゃんとわかっていない…そんな頃だ。
ただ俺と一緒にいたい、そう言って俺のキスを受け入れて触れることを許して、少し経った日のことだった。
「あきちゃん、こいのぼりは?」
「え…?こいのぼり?」
「あのね、くーのおうちにあったの!おっきいの。おばあちゃんとおじいちゃんがくーにかってくれたの。」
「あぁ……。」
その日は5月5日、連休の後半を過ぎてやって来る「子供の日」だった。
空が生まれた年に、俺の母親と父親は可愛い初孫のために…とそれは大きくて立派なこいのぼりを買ってやったらしい。
「あきちゃんのところにはないの?」
「うん、ないよ。」
「でもママいってたよ?おとこのこのおうちにはあるんだって。どうしてあきちゃんにはないの?」
「お、俺はもう大人だからな…。」
「ふーん…。おとなになったらこいのぼりはやっちゃいけないの?」
「絶対にいけないってことはないだろうけど…ほら、子供の日って言うからにはな…。」
おとこのこのおうち、か…。
俺が同じ男だということはわかっているんだな…。
その男にキスをされて身体に触れられて、空は変だとは思わないのだろうか。
それこそ「やっちゃいけない」ことだと気付いてはいないのだろうか。
「あきちゃんー…。」
「ん?どうした?」
時々訪れる罪悪感に少しだけ胸を痛めていると、空が俺の服の袖をぎゅっと掴んで俺の顔をじっと覗き込んでいた。
これは何かをお願いする時の表情と仕草だ。
空と暮らして数ヶ月、俺はだいたい空の考えることがわかるようになって来ていた。
空の母親である俺の姉にそれはもう大事に育てられたせいか、空は我儘をよく言う子供だった。
それも最初は鬱陶しいと思ったこともあるけれど、今では可愛く思えて仕方がない。
その我儘を出来るだけ聞いてやりたいと思うのは、そんな空を愛しいと思う恋心からだ。
誰だって恋人の我儘を聞いて叶えてやりたいと思うのは自然なことだろう。
ただしそれが自分の出来る範囲であれば、の話だが。
「くーね、こいのぼりやりたいのー…。」
「やりたいって…そう言われてもうちには…。」
「あきちゃんといっしょにこいのぼりやりたいの…。」
「空…。」
困ってしまった。
それならおばあちゃんのところへ行けばあるかもしれない。
俺が昔飾ってもらっていた古いものだけど、それで我慢してくれるか…?
そう言おうと思ったのに、空のひとことで俺の心は揺れ動いてしまった。
「あきちゃんといっしょ」口癖のようなその言葉が、俺の中の独占欲を目覚めさせてしまう。
「あきちゃんー…。」
「わ…わかった…。」
「くーこいのぼりやれるの?」
「うーん…。」
俺は具体的にどうするか決めないまま、曖昧な返事をしてしまった。
実家には行きたくないけれど、こいのぼりは飾ってやりたい。
それも自分の両親が買ってやったものに負けないぐらいの…。
しかしそんな物をすぐに買ってやれるほど、大学生の俺は金に余裕なんかなかった。
だけどあんなせつなげな目をされて、他にどう言えば良かったと言うんだ。
空が部屋中を飛び回って喜んでいるのを見て、後から「やっぱり無理」なんて言えるわけがなかった。
「あきちゃん?」
「え…?」
「こいのぼり、やろー!」
「あ…あぁ…。」
再び空に服の袖を掴まれて、俺はとうとう逃げ場を失ってしまった。
ぎゅっと握ったその手の温度が自分よりも熱くて、俺は熱を上げてしまいそうだった。
こんな幼い子供におかしな欲望を抱くなんて、自分でも信じられないけれど。
「どこにあるの?こいのぼり!」
「あ…えっと…、空…、お腹減ってないか…?」
「うんと…へってるー。」
「じゃ、じゃあこいのぼりの前にレストランに行こうか?ハンバーグ食べたくないか?そうしよう、空!」
この頃の俺はまだ、それほど頻繁に料理をしていなかった。
平日はまだしも、休日ともなれば外食をすることが多かった。
空が好きなハンバーグを食べに行こうと誘えば、空の機嫌も良くなるかもしれない。
こいのぼりのことなんて忘れて、そのことで満足してくれるかもしれないと思ってしまったのだ。
「うんっ!いくー。れすとらんー♪あきちゃんとれすとらんー♪」
「よし、じゃあ着替えて出掛けようか。」
俺はひとまずホッと胸を撫で下ろした。
子供というのは単純なもので、それを利用した大人の悪い作戦だった。
そんなものが通じるわけがないことを、この後嫌というほど味わうことになるのも知らずに。