「なぁに二人とも…変な顔しちゃってさ。」
「志摩ー?どうしたんだ?隼人も。腹痛いのか?」
それからの俺達は、気まずい以外の何でもなかった。
隣の二人が来ても、あの賑やかな空気とは程遠いものが流れていた。
「ううん、何でもない…!ごめんね、心配かけて!」
何でもなくなんかない。
志摩が何でもないと思っていても、俺が何でもなくなんかないんだ。
そんな風に笑って誤魔化せるほど、俺は平静にはなれない。
「変なのっ!喧嘩なら早く仲直りしてよね、鬱陶しい!」
「えぇっ!志摩と隼人は喧嘩したのか?」
「し、してないよ…!大丈夫だよ、ごめんね虎太郎!志季もごめんねっ?!」
大丈夫なんかじゃない。
何が大丈夫だって言うんだ。
好きな奴に裏切られて、大丈夫な奴なんかいるものか。
どうしてそんな風に言えるんだ…。
何事もなかったかのように出来るんだ…。
俺の中の志摩への疑惑は怒りへと変わり、苛立ちを抑えられなくなってきていた。
「ご馳走様!もうっ、空気悪いよ!」
「えー?志季、もういいのか?」
「虎太郎はゆっくりしてれば?僕は無理!もう行くからねっ。」
「あっ、待てよ志季ぃー!」
志季は立ち上がり、ろくに食事をしないまま行ってしまった。
いつもなら居座るはずの虎太郎まで行ってしまったのは、よほど俺達の間に流れる空気が悪かったのだろう。
「あ、あの…隼人…さっきのことだけど……。」
残された俺達は、暫くの間言葉を交わすこともなかった。
それでも最初に志摩が口を開いたのは、あまりにも俺の表情が恐かったからかもしれない。
「じ、実はそのー…。」
聞きたくない。
そんな話は聞きたくなんかない。
志摩の口から他の誰かの名前が出るなんて嫌だ。
俺とのことが間違いだったなんて言われたくない。
「志摩、ここはお前が使えよ…。」
「隼人…?」
「俺は働いてるから大丈夫…、住むところもすぐ見つかるから…。」
「は、隼人…?突然どうしたの…?」
俺はその恐怖感に耐え切れずに、自ら口を開いた。
そうすることで志摩から事実を告げられた時のショックが軽減するかもしれないと思ったからだ。
強気なところを見せていれば、志摩はきっと俺を恐れる。
そして自分のしていることを反省して、また俺の元へ戻って来てくれるかもしれない。
そんな女々しい考えを抱きながら、鋭い視線を志摩に向けた。
「どうしたの?は俺が言いたいんだけど…。」
「あ、あの…それってどういう…。」
「どういう?とぼけるのか?」
「は、隼人…?俺わかんな……。」
俺に睨まれた志摩は、ビクビクと身体を震わせていた。
目に涙を溜めて、今にも声を上げて泣き出してしまいそうだ。
あんなに好きだった志摩の泣き顔が見れるかもしれないのに、状況が違うとこんなにも喜べないものだとは…。
だってまさか志摩が俺から離れて行くだなんて、想像もしていなかったんだ…。
「わからない?自分が浮気してることがわからないのか?」
「え……?!」
「え?じゃないだろ…?驚きたいのは俺の方なのに…。」
「は、隼人…?!な、何言ってるの…?!」
志摩は目を丸くして、口をぽかんと大きく開けて動けなくなっていた。
自分のしたことがバレないとでも思っていたのだろうか。
それともそういう振りでもしているのだろうか…。
「他にいるんだろ…。」
「何が…?隼人…俺わかんないよ……っく…、ふぇ…。」
それでもとぼけ続ける志摩に、俺の苛立ちは最高潮を迎えてしまった。
いつもなら可愛いと思う泣き顔も、この時ばかりは俺の怒りに火を点ける以外の何物でもなかった。
「明日誰かと出掛けるんだろっ!こそこそ電話なんかして…!」
「そ…それは……!う…ふぇ…っ、隼人聞いて…っ。」
「泣いて誤魔化すなよ!」
「ひゃ……!」
「隠れてそんなことするぐらいなら…さっさと言えばいいだろっ?!」
「ま、待って隼人それは…!」
「俺は他の人がいいんですって…、他の誰とでもその身体を……。」
「………っ!」
そうだ…これだけは言ってはいけなかったんだ…。
前にもそんなことを言って、志摩に思い切り叩かれたんだ…。
そして泣きながら出て行って、部屋に一人残されて…あの時俺はあんなにも惨めで寂しい思いを味わったのに…。
どうして何度も同じ間違いを犯してしまうのだろう。
いくら志摩が浮気していたからって、言い訳も何も聞かずに一方的に酷い言葉を投げ付けるなんて…。
「だから……志摩…?」
「…です……。」
「志摩…今のは……。」
「もういいですっ!隼人…ひどいです…っ、実家に帰らせてもらいま……う…ふえぇ…っ、ええぇ────…ん…!!」
すぐにでも訂正しなければと思った時には遅かった。
バカな志摩でも俺が言いたいことぐらいはわかったようで、ショックで一瞬言葉を失ってしまっていた。
俯いた顔はみるみるうち泣き顔に変わり、身体を震わせながら叫んで、走ってどこかへ行ってしまった。
「志摩…。」
ついさっきまでの立場が逆転してしまったかのようだった。
俺は志摩の言葉に胸を痛め、俯いたまま顔を上げることも動くことも出来ない。
志摩もこんな風になっていたのかと思うと、今更ながら激しい後悔の波が押し寄せた。
「志摩…志摩……。」
バカみたいに志摩の名前を呼んでみても、その本人は戻って来るはずがなかった。
そんなのは当たり前だ、俺があんなに酷いことを言ってしまったんだから。
もう少し落ち着いて志摩の言い分も聞いてやれば良かったんだ。
話を聞いて、お互いの思いをぶつけて、それからでも遅くなんかなかったんじゃないか…。
それを俺は何て大人気ないことをしてしまったんだろう。
何て最低なことをしてしまったんだろう。
「志摩ぁ……。」
とうとう俺は情けない声を上げて、床にへたり込んでしまった。
危うく声を出して泣いてしまいそうになって、何とか堪えようと目頭を押さえる。
「え……?」
志摩のことばかりで頭がいっぱいだった俺は、その志摩が出て行く瞬間何かを投げ付けたことに気付かなかった。
押さえた掌には薄っぺらい紙切れが纏わり付いて、やっとそのことに気が付いた。
「これ……。」
『S水族館前売り入場券・大人2人』
それは俺と志摩が、いわゆる初めてデートというものをした水族館のものだった。
わざわざ前売り券を買うほど混んでもいないのに、こんなものまで準備をしていたなんて…。
「あ……。」
『世界のエビ展開催中~珍しいエビもたくさんいるよ!皆で見に来てね!』
俺はどうして、そういう可能性を考えなかったのだろう…。
志摩が隠れてこそこそしている時は、俺とのことが多かったのをどうして忘れてしまっていたのだろう…。
志摩はバカだから、言葉が足りなくて上手く伝わらない時が多いのを、どうして忘れてしまっていたのだろう…。
もしこれが俺の思う通りだとしたら、俺はとんでもない勘違いをして、とんでもないことをしてしまったことになる。
「志摩……。」
今ならまだ間に合うかもしれない。
今なら謝れば許してくれるかもしれない。
今なら志摩の話を聞いてやることができるはずだ。
今なら……今ならまだ……!