「俺…、俺……、短い間だったけど…お世話になりましたっ!」
「……は?!」
洋平は膝を付いて頭を床に付け、突拍子もないことを言ったのだ。
あまりに突然過ぎて、どこからそんな話になるのかがさっぱりわからない。
何か悪い物でも食べたんだろうか、そんな心配までしてしまった。
「俺…この家出てくことにしたんだ…。」
「は?ちょっと待て、大丈夫かお前?」
「お、俺は本気だっ!止めても無駄だからな!」
「いや…止めてはねぇけど…。」
「えぇっ!俺が家出してもいいのかよ?!」
「止めて欲しいのか欲しくねぇのかどっちだよそれ…つぅか何があったんだよ?最初っから説明しろっての。わけわかんねぇっつぅの!」
一体何が本気なのかわからない。
理由も何も言わずにそんなことを言われた俺はどうすればいいんだ。
しかも生まれた時から近くにいる俺に向かって「短い間」とは、こいつの頭の中での長短はどういう基準で分かれているのかわからない。
「実はテストでクラス最下位とっちゃってさ…。」
「げ…またかよ?だから勉強しろって言っただろうが。」
「それで今母ちゃんと喧嘩になって…。」
「そりゃお前が悪ぃんだろ、なんだってそんなに頭悪ぃんだよ?」
「それはいいんだ…そうじゃなくてさ…。」
「いいわけねぇだろうが、お前もホントに俺の弟かよ?とりあえずでも勉強しときゃ文句も言われねぇのによ。」
俺は決してガリ勉ではなかったけれど、その「とりあえず」でも勉強をしてうまいことやっていた。
普段遊んでいようが、テストの点がよければそんなに文句は言われないことを知っていたからだ。
そんな俺とは逆に洋平がクラスで最下位を取るのは珍しいことではなかった。
それこそ小学生の時は0点のテスト用紙を持って来たのをよく見かけた。
それで隠そうとしてすぐに見つかって、余計怒られて…、そんなことの繰り返しだった。
「それだよ…。」
「あ?何が?」
「だから、俺…この家の子供じゃないんだって…。」
「はぁ?」
「母ちゃんが打ち明けたんだ…、俺が樽に入って川から流れて来たところをたまたま拾ったんだって…。」
「ぶはは!!何言ってんだよ?!そんなわけねぇだろ?」
洋平は正真正銘俺の弟に間違いはない。
俺はよく覚えていないが、腹の中にいる時から生まれるのを楽しみにしていたらしいし、
洋平が生まれる時は父ちゃんに負ぶわれて病院に駆けつけたらしい。
どう考えてもそんなことがあるわけがない。
それに川から流れて来たっていうのは何だ。
桃太郎じゃあるまいし、そんなことを言う方も言う方だが、信じる方も信じる方だ。
「嘘だっ、兄ちゃんだって知ってたんだろ?!」
「知ってるも何もそれはねぇって言ってるだろ!もののたとえだろ、お前が勉強するようにって。」
「でも俺の名前だって、思いつかなくて最初からいた兄ちゃんの名前から適当に付けたんだって言ってたぞ?!」
「んなわけねぇだろうが!」
「だって母ちゃんがそう言ったんだって!」
「そりゃ冗談に決まってるだろ!アホかお前、冗談と本気の区別ぐらいわかれよ!」
「兄ちゃんと違って頭が悪いのも俺がホントの子供じゃないからなんだっ!」
「それはお前が勉強しねぇからだろうが!」
確かに俺も洋平の名前については親も安易だな、なんて思っていた。
だけどそれは安易ながらも兄弟だとすぐにわかる名前でもあるということでもある。
しかし俺が何を言っても洋平は信じようとせず、親子喧嘩から兄弟喧嘩に縺れ込んでしまった。
その後どうしても信じない洋平に母ちゃんは納得するまで毎日のように何時間も説明をしたがそれでも信じなくて、
最終的には戸籍謄本まで取り寄せるという藤代家での大事件となった。
バカというのはこういうところが恐いということを俺達家族は学んで、母ちゃんはそれ以来洋平に対して冗談でもそういうことを言うのをやめた。
「兄貴、久し振り。」
俺が高校を卒業してすぐに家を出て2年が経ったある日、突然連絡もなしに俺の家に洋平がやって来た。
当時俺は夜の仕事をしていて、ハッキリ言って洋平が朝っぱらから訪ねて来たことには迷惑だった。
しかも大きな荷物を手にしていたのを見て家出だと勘付くと、またあの時の事件を思い出してしまったのだ。
「俺さぁ、花屋になりたいんだ…!」
話だけは聞いてやろうと仕方なく中に入れると、洋平はまた突拍子もないことを口にした。
今まで本気で「○○になりたい」なんてことも言ったことがなかったし、そんな話を兄弟でしたこともなかったから当たり前かもしれなかったけれど。
「兄貴は誰かに花あげたことあるか?」
「あー…?ま、まぁな…なくはねぇけど。」
洋平は初めて出来た彼女の誕生日に、花束をプレゼントした。
それは花屋で長時間悩んで迷って相談をして決めた花束だった。
そして受け取った彼女があまりにも喜んでくれたから。
花を選んでいる時は楽しくて、一緒に選んでくれた店員も一生懸命になってくれたから…。
あの店員みたいに、誰かが喜んでくれる手伝いをしたい。
だから俺は花屋になりたいんだ…と言う。
それは単純だけど優しい、洋平らしい選択だと思った。
そこまではいい、俺も素直に弟の進路を応援してやろうと思った。
しかしそれから延々4時間半、俺が眠気で朦朧としている中洋平は話し続けたのだ。
「それを母ちゃんも父ちゃんも反対するんだよ!学校に行きたいって行ったらお前が絶対に入れるわけなんかないって!」
「あ…そう…。」
「あっそう、じゃなくて!ひどくねー?!そこまでバカじゃないっつーの!」
「わ…、わかったから…!お前の熱意はわかったから…!」
絶対に入れるわけがないと決め付ける親もどうかと思うが、俺の都合も考えずに話し続ける洋平もどうかと思うところだ。
そういうところは、小さい頃から変わっていない。
「どうせバカに出す金はない、とか思ってんだぜ?!」
「わかったから…!頼むからちょっとだけでいいから寝かせてくれ…!」
「あ…ごめん、寝てなかったのか?」
「遅ぇっての…。夕方になったら起きるからそれまで寝かせてくれよ…。」
ごめん、という洋平の言葉を聞きながら、俺はぱったりと眠りに就いた。
そしていつものクセで夕方に起きると、洋平はぽつんと床に座っていた。
家出までして来てあんなに熱く語った奴が、寂しそうな犬みたいに座っているのがなんだか可笑しかった。
「お前の熱意はわかったからよ…。」
「うん…。」
「そんな言われるなら俺が金出してやってもいいしな、学校の。」
「え…マジで?!いいのかよ…?!」
寝起きの一発目の煙草に火を点けて、煙を吐き出す。
さすがに家出までしたなら親もその熱意が伝わって、実際に俺が金を出すことはないだろう。
だけど俺は、やっぱり洋平の兄でいたかった。
頼って来てくれた洋平に、応えてやりたかったのだと思う。
「その代わり落ちたら俺が金取るからな。」
「えー?!なんだよそれ!!」
「それぐらいちゃんとやれって言ってんだよ。」
「うん、わかってるよ。」
洋平は今までにない表情を浮かべていた。
自分の道を決めてそれに向かおうとしているその表情は、俺から見ても男らしいと思った。
いつの間にか俺の背も軽く追い越して、もう弱虫で泣き虫だった洋平はどこにもいない。
俺は寂しさと嬉しさを噛み締めるように、咥えていた煙草をギリギリまで丁寧に吸った。
それから洋平は勉強を頑張って(あいつにしてはだが)見事学校に合格し、きちんと卒業もした。
念願だった花屋に就職も出来て、忙しい毎日を送っていた。
これであいつも一人前だ、俺を頼って来ることはない。
そう思っていたのだが…。
「兄貴どうしよう、銀華と喧嘩しちまった…。」
洋平は相変わらず何かあると俺のところに相談に来る。
やれ猫神と喧嘩しただの、こういう時はどうしたらいいだの、猫神の誕生日プレゼントは何がいいだの。
そんなことは自分で考えろ、と何度冷たく言い放っても毎回訪ねて来るのだ。
「なぁ、頼むよ兄貴ー。」
果たして頼りになる兄になろうとした俺がいけなかったのか。
それともそんな俺の言うことを一から百まで信じた単純な洋平がいけなかったのか。
おそらくどちらも当て嵌まる。
だからこそ俺達は正真正銘の兄弟で、それは一生変わらない事実なのだ。
そして俺は、いつまでも頼れる兄でいようと思っている。
END.