「ただいまー、銀華!」
今日は2月14日…そう、世間ではバレンタイン・デーというやつだ。
とは言っても今年のバレンタイン・デーは平日で、社会人にとってはいつも通り仕事がある日だ。
平日休みの俺もこの日は仕事があり、いつも通りに仕事に行っていつも通り夕方過ぎに帰宅をした。
「あぁ…。」
「あぁ、じゃなくてさー…。」
「わ、わかっている…。」
「わかってるなら…はい。」
いつまで経ってもお帰りなさいのキスに慣れない銀華は、不機嫌そうな顔をして俺を出迎えた。
俺が頬を突き出してキスを強請ると、仕方がないと言わんばかりに深い溜め息を吐く。
それでもしてくれるようになったのだから、今のところはそれでいいことにしようと思っている。
それに本当に嫌なら強請ったところでやってくれるはずがないんだ。
そのことを本人に言えば本当にやってくれなくなるかもしれないから、俺は口を噤むことにしている。
「それは何だ…。」
「え…?何が?」
「そのような荷物を持って出掛けたかと思ってだな…。」
「あぁ!これか!」
いつもと同じような帰宅のやり取りの中で、いつもと違うことが一つだけあった。
銀華というのは、記憶力がやたらと良い。
頭の悪い俺にとっては羨ましくなるほど、物事をよく覚えている。
この時銀華の差す指の方向には、俺がいつも持ち歩いているバッグとは別に紙袋があったのだ。
「今日バレンタインだっただろ?店の子とかからもらってさ、バッグに全部入らなかったからこれに入れて持って帰って来たんだよ。」
俺は何の気なしにその紙袋からもらったチョコレートを一つ一つを取り出し、銀華に見せた。
店のバイトの理香ちゃんや用があって来た他の店の社員、それから忘れ物を届けに店まで来たついでにくれた店長の奥さん。
隣の理髪店のおばちゃんやその隣のスーパーの店員の人達、斜め向かいの煙草屋の若奥さん。
俺の働く花屋は商店街が並ぶ場所にあるせいか、辺りの人間同士の繋がりが結構深い。
そういう地域の中で商売を上手くやっていくためでもあるし、ただ単に花屋で働く若い男が珍しくて声を掛けて来てくれたのかもしれないが、俺も顔見知り程度には話すのだ。
とにかく俺にとってはその人達は皆単なる仲間みたいなものであって、チョコレートをくれることに対して何も深い意味なんてものはなかった。
去年は俺はちょうど休みの日でほとんどもらわなかったし、たまたま今年は俺が店にいたからくれただけだ。
そのことから言っても深い意味なんかはないと言うことは十分にわかる。
「そうか…お前はその…人気があるのだな…。」
「え?人気って…そんなことねーよ、ただ単に俺の顔見かけたからだろ?」
「果たして本当にそうなのかと言うところだな…。」
「え…?何?どうしたんだ…?」
「もしかしたら心を込めてお前に渡した者もいるのではないのか、と言うことだ。」
「ははっ、そんなのねーって!全部義理ってやつだって!」
しかし並べられたチョコレートを前に、銀華は眉をひそめて少しだけ睨んでいた。
おかしな表情を浮かべておかしなことを言って、銀華らしくもない。
だいたい銀華はこういうイベントが嫌いで、どうでもいいと思っているはずだった。
だから俺も何の気なしに出して見せてしまったけれど、どうも違っていたようだ。
「別に私には関係がないがな…。」
「えっと…銀華…?」
「早く着替えて手でも洗ったらどうだ?いつもは腹が減ったと喚いているだろうに…。」
「あー…あのさ…。」
他人にはわからない程の僅かな頬の膨らみや、わざと逸らしてしまった視線。
ブツブツと吃りながら呟く言葉のすべてが、銀華の心情を表していた。
「もしかして…怒ってる…のか?」
「何がだ。私は別に何も…。」
「え…だってそれってさ、嫉妬してるってことじゃないのか?」
「な…何を言っているのだ…!私がそのようなことをするわけが…!」
そんな真っ赤になって言われても、全然説得力がないのになぁ…。
銀華は普段はわかりにくい奴だけど、時々物凄くわかりやすい奴でもあるんだ。
それを見れるのは俺だけだと言うのがまた嬉しいんだよな…。
「えっと、ごめんな?俺、無神経だったな…。」
「べ…別に謝らなくとも…。」
「うーん…でもそれ絶対嫉妬だろ?……ってー!!いてててっ!」
「お、お前のどこからそのような自信が出て来るのだっ!余り調子に乗るな…!」
背を向けてしまった銀華を後ろから抱き締めると、突然手をぎゅっと抓られてしまった。
俺がこういうことを言うとすぐに銀華は怒ってしまう。
それをわかっていながらも言ってしまう俺は、嫌な奴なのかもしれない。
怒った顔も可愛くて、その顔をもっと見たい、だなんて…。
「んな思い切り抓んなくてもいいのに…。」
「く、下らぬことを言っていないで早くしろ…。」
「下らなくなんかないのに…。」
「屁理屈を言うな…!私も今日は志摩のところへ出掛けていたからな、腹が減ったのだ…!」
せっかくイチャイチャしようと思っても、銀華がこれだからなかなか出来ない。
腹が減ったなんて強く言われたらどうしようもないし、俺自身も腹が減っているのは本当だった。
これじゃあもうさっさと諦めて食べる準備をするしかなくなったじゃないか…。