「あれ…?水島くん…?」
それは秋も深まるある日の夕方のことだった。
俺は帰り道から少しそれた場所にある、とある花屋の前に立っていた。
そこに並んだ色とりどりの花達をずっと眺めては、どうしようかと迷っていたのだ。
明るい店員に声を掛けられて俺が顔を上げると、そこにはよく見る顔があった。
「あ…どうも…。」
「えー?何何?めずらしいじゃん、っていうか初めてじゃねー?兄貴になんか用とか?でも俺最近電話してな…。」
「あっ!ち、違うんだ…。」
「え…?あれ?もしかして…。」
俺はよそよそしい挨拶をして、目線を合わせないようにしていた。
この俺が花を買いに来たなんて似合わな過ぎて柄でもなくて、恥ずかしいことこの上ない。
その恥ずかしさを紛らわすためにわざわざ知っている人の勤める店に来たというのに、実際藤代さんの弟の顔を見ると余計恥ずかしさが込み上げてしまった。
「あの…なんか適当に花束に…五万円ぐらいで足りるかな…。」
「えぇっ?!ご、五万?!すっげー、そんな金出す人この店じゃ珍しいぜ?あっ、会社で使うとか?」
「あっ、ご、ごめん…いやあの…、花の値段ってよくわかんなくて…。」
「なんだ…びっくりするじゃん…何のイベントかと思った。そんなにあったら花にもよるけど開店祝いとかのでかいの作れるぜ、普通に。」
「そ、そうなのか…?」
「うん。五万どころか五千円…いや、三千円で十分いいのが作れるよ。」
いくらこういうことに興味がないと言っても、自分の非常識には呆れてしまった。
これじゃあ志摩のことを世間知らずだの無知だのと言える立場ではない。
それに多分、志摩だったら俺よりもこういうことは知っているはずだ。
俺は花というものは特別な日にしか買わないもので、もっとするかと思っていた。
今回来たのもその「特別な日」には代わりはないのだけれど…。
「で?どういう感じとかある?」
「え?どういうって…。」
「入れて欲しい花とかー…、なんだろ、イメージ…小さくて可愛い花をいっぱいとか、でっかいのでゴージャスに、とか。」
「あの…じゃあ小さくてその…か、可愛いっていう…。」
藤代さんの弟に事の全てを知られたわけでもないのに、俺はドキリとしてしまった。
「小さくて可愛い」なんて花のことを言っているのに、志摩のことを思い浮かべたりして。
俺は一体何をやっているんだか…。
「オッケー、任しといてくれよっ!」
藤代さんの弟は笑顔で一度店の奥へ行き、花束に使う道具や何かを持ってすぐに戻って来た。
カラフルな包装紙だとかテカテカ光るリボンだとか…普段生活をする上で俺にはまったく縁のないものばかりだ。
俺は男らしいゴツゴツした手によって繊細な花束が出来上がっていくのを、まるで違う世界の出来事のように眺めていた。
「こんなんでどう?水島くん?おーい、水島くんってば。」
「え…!あ、あ…う、うん…。」
「何か疲れてんの?ぼーっとして。」
「いや…凄いなーと思って…。」
「えぇっ!そ、そんな…なんか照れるな…そう言われると。」
「いや、うん、でも本当に凄いと思う…。」
人にはそれぞれ向き不向きというものがあるのだろうけれど、藤代さんの弟の場合はまさにこれが天職なのだろう。
花束を握って俺に渡す時の笑顔が眩しいぐらいで、きっとこういう職業に向いているし、この仕事が心から好きなんだと思う。
俺はそういう意味でも凄いと思って、呆けてしまっていたのだ。
「喜ぶといいな、志摩。」
「えっ!!お、俺志摩にやるって言ったっけ…?!」
「え…?ち、違うのか?つーか志摩じゃないんだ?!」
「いやあの…違わないんだけど…。」
俺は藤代さんの弟が全部お見通しだったことに、大いに慌ててしまった。
志摩の名前なんて一度も出していないのに…。
でもよく考えたら志摩以外にやる方が考えにくいのかもしれない。
俺は恥ずかしさを誤魔化すのに必死で、冷静さまで失ってしまったらしい。
「また来てくれよ!サービスするから!」
「あ…うん…。」
藤代さんの弟にブンブンと手を振られながら、俺は花屋を後にした。
そして全部知っていた上で何の冷やかしもなく俺に接してくれたことに感謝をした。
これが兄である藤代さんだったら…それどころでは済まされないだろう。
そういうところは兄弟なのに全然似ていない。
ああいう素直に人の喜びを分かち合える真っ直ぐなところがよくて、あの猫神様も一緒にいるのかもしれない…。
俺は花束を隠すように抱えながら、家を目指した。
事の発端は、数日前のことだった。
いつものように夕ご飯を食べていた時、志摩が大声を上げた。
「あーっ!!わ、忘れてたー!!」
志摩が突然叫んだりするのはよくあることで、今更驚きはしなかった。
忘れることもよくあることで、俺はさほど大事とは考えていなかった。
「うーっうっうっ…どうしようー…。」
志摩の顔は青ざめたかと思うと、真っ赤になって目をぎゅっと閉じている。
涙を滲ませているのを見た時、これは只事ではないということを察した。
「どうしたんだよ…。」
「うっうっ、だってー…。」
志摩は口元にご飯粒をくっ付けたまま、半ベソをかきながら俺にしがみ付いて来た。
こういうところが年齢不相応というか…ハッキリ言って子供も同然だ。
その子供みたいなところが好きで、子供みたいな奴に夢中なのはこの俺だけれど。
「わかったから泣くなよ…いいから話してみろよ?」
「う、うん…っ、あのね…結婚記念日…っ。」
「………は?」
「お、俺達の結婚記念日…忘れてたの…っ、どうしようー!!」
俺は胸元で泣きじゃくってそんなことを言う志摩に、呆れ返ってしまった。
結婚記念日って…俺達はいつから夫婦になったんだ。
思えば一年前も同じようなことを言っていたけれど、籍を入れた=結婚だと思うのはどうなんだ。
俺も志摩も男で、結婚なんか出来るわけがないのにどうしてそういう発想になるんだ…。
「そんなことで泣くなよ…。」
「そ、そんなことじゃないですっ!!俺にとっては大事な日だもんっ!」
「それはまぁ…。」
「しかももう一ヶ月以上過ぎてるー!もう終わりだよー!隼人に嫌われるー!!」
その本人を目の前にして何をとんちんかんなことを言っているんだろうと笑いたくなったが、志摩はそれぐらい動揺してしまっていた。
「俺にとっては大事な日」つまりは志摩にとっては初めて家族が出来た日でもある。
俺もそれをわかっていたから、それ以上笑うことも文句を言うことも出来なくなった。
志摩だけじゃない、俺にとってもちゃんとした家族が出来た日だったからだ。
「わかったから。今度やればいいだろ?」
「うっうっ、ホントですか…?」
「うん。」
「あの…じゃあ…記念の花束か指輪が欲しいです…!」
さすがにそれだけは絶対に出来ないと断るつもりだった。
この俺が花束なんて、指輪なんて…。
志摩は普段我儘なことを「ごめんなさい」と反省しているのにもかかわらず、こういう時は堂々と我儘になれるんだから凄い。
それも狙っているわけでもないというから凄いというか…ある意味才能とも思えて来てしまう。
しかもそんな潤んだ大きな目でじっと見つめて…志摩は俺のことをずるいというけれど、こういう時の志摩だって十分ずるい。
「わ…わかった…。」
「ホント?やったー、嬉しいですっ!」
「ただし指輪は勘弁してくれ…花だけでいいだろ?」
「はいっ!!何でもいいですっ!!隼人大好きー!」
こうして俺は仕方なく花束を渡すことを約束させられてしまった。
これも惚れた弱みというやつなんだろうか。
俺は志摩には勝てない。
この先もずっと、志摩には敵わないんだ。
それだけ俺は志摩が好きなんだと思うと、抱き付いて来た志摩にキスをしたくなった。
だけど口元に付いたままのご飯粒が目に入って、思わず笑ってしまって出来なくなった。