「サクライロ7DAYS」【1】
「サクライロ7DAYS」シリーズ 同じクラスの吉田くんは、完璧過ぎる人間だ。
テレビや漫画の世界ではよく見かけるけれど、実際にそんな人間なんていないと思っていた。
頭が良くて、顔も良くて、男女を問わず皆の憧れの的。
制服が良く似合っていて、生徒会活動なんかもやったりして、生徒だけでなく先生達からも信頼されている。
それでいてそのことを鼻にかけたりしないから、人気は上がって行くばかりだ。
当の僕もそんな吉田くんに憧れている一人で、同じクラスになった時には物凄く嬉しかったのを今でもはっきりと覚えている。
しかし出席番号が前後ということもあって友達になれるかも…なんて期待をしてしまったのは間違いだった。
一学期はそれこそ前後の席に座っていて、いつ話し掛けようとタイミングを見計らっていたけれど、勇気が出せないまま二学期になって席替えが来てしまった。
そして結局この時期が来るまで会話と言う会話をしたこともなく、僕達はもうすぐ卒業を迎える。
それが一変してしまったのは、卒業前の山場である高校受験を一週間後に控えた放課後の教室だった。


「吉岡…?まだ残ってるの?」
「え…?あ……!は、はい…っ!ごめんなさいっ!」

僕は私立の高校を幾つか受けたけれど、ものの見事に全部落ちてしまった。
残された道は公立の高校一校だけで、これに落ちたら僕は高校生になれないことになってしまう。
こんなことならもっと一生懸命、毎日寝ないででも勉強をしておけばよかった。
そう気付いた時にはもう遅くて、迫って来る受験本番のため、ラストスパートに追われていたのだ。
家に帰ると誘惑がたくさんあるからという理由で、僕は放課後の教室を利用して取り組んでいた。
その日も同じように教室で勉強をしていて、後ろのドアから吉田くんが現れたというわけだ。


「ご、ごめんなさいっ、今すぐ帰るから…!」

生徒会活動の一つで吉田くんが教室の見回りに来たのは、時計の針が夕方5時半を指そうとしていた時だった。
ギリギリで勉強に明け暮れる僕とは違って、吉田くんは有名私立校に進学が決まっていて、後はもう卒業式を待つだけだった。
先生達やクラスの友達の噂話によると、受けた学校の全部を合格したと聞いている。
全部落ちた僕とは面白いぐらい逆で、その一校分でもいいから僕も受かりたかった…なんて思ってしまった。


「それ…受験の?」
「あ……は、はい…。」
「何が苦手なの?」
「えっと…数学と…国語と英語とそれから…。」
「それほとんど全部じゃん。」
「あ…、そ、そうかもしれないねっ!僕は頭が良くないし…私立は全滅だったから…。」

初めての会話がこんな話題だなんて、恥ずかしい。
せめてもっと吉田くんに見合った話題にしたかった。
会話することは夢のまた夢だったけれど、それなりに理想だけはあったのに…。


「どこ?」
「え…?あ、あの…。」
「わかんないとこ、どこ?ほら座って。」
「あ…は、はい…。」

帰り支度を始めようとする僕をよそに、吉田くんは椅子の向きを変えて素早く座り込んでしまった。
そういう動作の一つ一つまでさり気なく見えるんだから、美形っていうのは得だ。


「これ、使う公式全然違うよ。」
「あ…ご、ごめんなさいっ!」
「別に謝らなくてもいいけど…。っていうか同い年なのに敬語使うの変だよ。」
「は、はい…あっ、う、うん…。」

僕はしどろもどろになりながら、吉田くんの向かいに座った。
こんなに近くで吉田くんを見たのは初めてで、勉強なんかそっちのけで色んなところへ目が行ってしまう。
教科書を捲る大きくて骨ばった手なんか、まるで大人の男の人みたいだ。
俯き加減な目の上にある睫毛は男の人にしては長くて、肌も艶があってきめ細かくて綺麗で…。
少し薄めの引き締まった唇はとても血色が良くて、触れたらどんな感触がするのだろう…?


「吉岡?聞いてる?」
「あ……ご、ごめんっ!えっと…ど、どれだっけ…?わわっ、ノートが…!!あぁっ、消しゴム…っ!」

僕は今、何を考えてしまったんだろう。
唇に触れたら…なんて、まるで触れたいみたいじゃないか…。
吉田くんは僕と同じ男なのに、それじゃあ何だか僕は吉田くんのことが…。
ただの憧れだったはずの感情が違っているかもしれないと思うと、激しい動揺を覚えてしまった。
狭い机の上に広げられたノートや消しゴムを落としてしまって、慌てて拾おうと手を伸ばす。


「ぷ……。」
「えっ?あ、あの…僕何か変だった…かな…。」

それを椅子に座ったまま見ていた吉田くんは突然表情を緩めて吹き出した後、クスクスと笑い出した。
確かにちょっとドジをしてしまったけれど、そんなに可笑しかったんだろうか…?


「そんなに慌てなくてもノートも消しゴムも逃げないだろ?」
「そうだけど…。」
「ごめん、馬鹿にしてるわけじゃないんだ。」
「ううん…僕こそ…。」

でも吉田くん、確かにノートも消しゴムも逃げないけれど、時間は逃げて行くんだよ…。
僕にとってはあと一週間しかない受験までのこの貴重な時間も、卒業式までの時間も。
一学期からずっと話し掛けようとして出来なかった時間も、全部全部逃げて行ってしまったんだ。


「ほら、ここ…。」
「あっ、あの…!」
「何?」
「えっと…あの…、どうしてあの…僕なんかに…。」

感傷に浸っていて、僕は肝心なことを忘れてしまっていた。
どうして僕は今こんなことになっているのか、突然過ぎて聞く暇もなかった。
教室の見回りに来たのなら早く帰って欲しかったはずなのに、どうして吉田くんは僕なんかに勉強を教えているんだろう?
今までほとんど話したこともないクラスメイトに構っている暇なんかあるんだろうか。


「公立受からなかったら困るんじゃないの?」
「あ…、うん…。」
「前から放課後勉強してただろ?」
「あっ、そっか!見回りで何度か…。」
「それなのに一校も受からなかったなんて気の毒で…。」
「う……。」

それを言われると悲しいと言うか何と言うか…。
本当のことだけど、気の毒なんて言われたら余計情けなくなってしまう。
それでも助けてくれたということには感謝をするべきなのかもしれない。
だって勉強を教わるだけでなく、こうして話すことが出来たんだから…。


「無駄話はもうやめ。はい、ここ解いてみて。」
「うん……。」

なんだそうか…吉田くんにとっては、これは無駄な話なんだ…。
それはそうだ、ただでさえ頭の悪い奴に勉強を教えることは自分の得にはならないんだから。
話せて嬉しいだなんて浮かれていたら、それこそ罰でも当たって合格出来ないかもしれない。
せっかく教えてくれているんだから、僕はその厚意に精一杯応えなければいけない。


「そろそろ帰ろうか。もうだいぶ暗くなって来たし…。」
「うん、そうだね。でも助かったー、すっごくわかりやすかったよ!」
「そう…?」
「うんっ、こんなに気持ちがいいぐらい解けたの初めてかもしれない!吉田くんのお陰ってやつだね!」


それから時間にして、約一時間ほどだったと思う。
すっかり暗くなった窓の向こうには、校庭を照らす灯りが点き始めていた。
たった一時間だけでも吉田くんの教え方は物凄くわかりやすくて、何だか僕まで頭が良くなった気分になった。
この調子で行けば合格出来るだろう…そんな自信まで生まれてきていた。


「吉岡はどっち?」
「あ、僕はここで右だから…。」
「そっか、俺は向こうだから…。」
「う、うん…。あの、今日はどうもありが……。」

すぐに帰る支度をして、僕達は校門を出て途中まで一緒に歩いた。
もうすぐ花開く桜並木が夜の闇に照らされていて、とても綺麗だと思った。
それから僕の隣を歩く吉田くんの横顔も、風が靡く度に揺れる黒い髪も。
別れるのが惜しくなってしまう程、この短い時間は僕にとって幸せなものだった。


「じゃあここで…。明日も教室で待ってて。」
「え……!」
「だって全部ダメなんだろ?まだ数学しかやってないから。」
「あ……う、うん…!あ、ありがとう…!」

僕はてっきり、吉田くんと過ごせるのは今日のあの時間だけだと思っていた。
たまたま教室で会ったからたまたま教えてくれただけで、また時間は逃げて行くものだと思っていた。
それが明日もあるなんて、僕にとっては予想外もいいところだ。


「じゃあ。」
「うん……ばいばい……。」

本当に夢のようだと思った。
あの吉田くんが、憧れの的で人気者の吉田くんが僕だけのために手を振ってくれた。
明日の約束もしてくれた。
また明日も僕はあの幸せな時間を過ごすことが出来るなんて…。


「ばいばい…。」

吉田くんの後ろ姿を見送りながら、僕の中でさっき打ち消したはずの感情が蘇った。
明日明後日、受験が終わっても、卒業式が終わっても、あの時間を欲しいと思ってしまった。


「ばいばい…。」

辺りに並んでいる桜達よりも一足先に花が咲いてしまったみたいだと思った。
胸の中がざわめいて、ドキドキして、突然何かが弾けたような感じ…。
それは僕が、初めて経験するこの思いはまぎれもなく恋なんだと気付いてしまった瞬間だった。
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