「I wish you find me」【1】
「あの夏は、幻。」シリーズ その年の夏は、例年以上に暑かった。
田舎も田舎、ド田舎と言っていい程のこの町で、俺は生まれ育った。
周りの大人は皆昔堅気で、クーラーなんて贅沢だと言うもんだから、うちにはクーラーなんてものはない。
もちろん通っていた地元の高校にもない。
朝から照りつける日射しの中、汗を流しながら自転車で学校まで通うのだ。
クーラーがあると言えば、少し離れたところにあるこの辺りでは大きなスーパーマーケットぐらいだった。
そんなド田舎だから、あんなことが起こるなんて思ってもみなかった。
平和を絵に描いたようなこの町だから、夜道を一人で歩いたりしても危険だということなど何もなかった。


「夏生ーどこ行くのー?」

太陽が完全に沈み切った頃、俺は玄関で靴を履いていた。
夕飯を終えて家族が一家団欒している中から、母親の声が聞こえてくる。


「ちょっとそこまでー。」

俺は後ろを見向きもせずに立ち上がって、適当に答えた。
この年頃というのは、誰でも親の言うことがうざったく感じてしまうものだ。
決して嫌いだとか憎いというわけでもないけれど、なんだかいちいち煩く感じてしまうのだ。
友達との話題でも時々出るし、皆そういうものなのだと思う。
近くの小さな店まで行こうと、俺はジーンズの横のポケットに小銭だけ入れて、家を後にした。


「ふ───…。」

後ろのポケットに入れておいた煙草を一本取り出して、道端で火を点ける。
歩きながら深く吸い込んで、白い煙を闇に吐き出す。
ちょうど煙草に興味を持つのも、この歳ぐらいだ。
特に美味しいというわけでもないけれど、友達に勧められてから俺は喫煙の癖がついていた。
しかしそこは田舎、家の中で吸おうものなら父親には張り倒されること間違いなしだ。
かと言って学校で吸おうものなら見つかって停学処分なんかになりかねない。
吸える場所と言えば、寛大な両親を持つ友達の家か、寝静まった後思い切り窓を開けた自分の部屋か。
もしくはこんな風に、外に出るか。
ちょうど煙草も切れそうだったから、俺は家の近くの店まで行くことにしたのだ。
歩いて5、6分の「田中屋」と書かれた古ぼけた看板を目指す。


「あーもう…、また出ない…。」

やっと着いた田中屋の前の自販機に向かって、俺は文句をぶつける。
看板も古ければ店も古くて、おまけに自販機も古いもんだから、金を入れても商品が出て来ないことがよくあるのだ。
それか釣銭が出て来ないかのどちらかだ。
商品が出ないことを見越して余分な金を持って来る必要があるけれど、出ないのはやはり悔しい。
ここで商品が出るかどうか、釣銭が出るかどうか、それは勝負みたいなものだった。
苦情を言おうにも俺はまだ未成年だから言えるわけがない。
狭い世間体の中で、○○さん家の息子は何歳、ということは皆把握しているのだ。
だからこそ店が閉まって誰にも見つからないこの時間を狙って来ている。
近くを通るバスも最終が行ってしまって、ほとんど人と会うことはないからだ。


「出ろ!」

何度か叩いた後、気合いを入れてもう一度叩いた。
がしゃーん…、と間の抜けた音が聞こえたら、俺の勝ちだ。
自販機の出口に手を掛けて、戦利品を取り出す。
取り出し口もまた、古くてなかなか手が入らなかったりする。


「……?」

ふと後ろに、何かの気配を感じて、俺は屈んだまま振り向いた。
一台の車が、ライトを消したまま停車している。
暗くて誰が乗っているかだとかはまったくわからなかったけれど、特に気にせずに俺は来た道を戻ろうとした。
家に戻るその前に、買ったばかりの煙草のビニールを剥がした。
バス停には灰皿もあるし、ベンチもある。
そこで一本だけ吸ってから帰ろうと、火を点けた。

その後のことを、俺はほとんど覚えていない。
聞いたことがない鈍い音がして、吸っていたはずの煙草が手からスローモーションのように落ちたのを見たのが最後だった。


…頭が痛い。
身体がなんだか浮いているみたいで、変な感じがする。
重い瞼を開けると、夏草の匂いに混じって錆びた鉄のような匂いがする。


「………。」

うつ伏せになったまま痛む頭を少し上げると、一面に自分の血液が広がっていた。
そしてこの土地に夏の間だけ咲く小さな白い花が、深紅に染まっていた。
おかしいのは、頭を上げたはずなのに俺の目の前には俺の頭が見えるということ。
驚いて声を出そうとしても、言葉の欠片さえも出ない。
伸びた草を掴もうとして、やっと気がついた。

俺、死んでる…。

死んだ後の世界なんて考えたこともなかった。
幽霊なんてものは存在しないと思っていたし、死んだ後は灰になるだけだと思っていた。
その灰になる前、この世とあの世の間で俺は彷徨うことになってしまったのだ。

どれぐらい歩いたかはわからない。
歩いたと言っても、歩いている感覚なんかまるでなかった。
ただ空中を漂っているだけ。
目が覚めた時にいた場所は、来たことがない見知らぬ場所だった。
とにかく知っている人がいるところへ行きたくて、俺は町の明かりを目指した。
ようやく人影が見えて、俺はホッと一息吐いた。
しかもそれが高校の同級生だったから、相手の方が気付いてくれると思った。


「あ………。」

よく考えてみたら、気付くわけがなかった。
手を上げて挨拶する俺を同級生は素通りして、自転車で行ってしまった。
それから何度か知っている人物に出会ったけれど、皆俺の存在には気付かない。
それどころか、俺の身体をすり抜けて行ってしまったのだ。

誰か、俺に気付いて。
誰か、俺を見つけて。

祈るような気持ちで、あのバス停に向かった。
すると見たことのない少年が、自販機の前で文句を呟いている。
叩いたりしても釣銭の出て来ない自販機に向かって。
その後も何度も叩いて文句を言っているのに、一向に出て来ないのを諦めたのか、彼はそこにしゃがみ込んだ。
悪いとは思ったけれどその動きが可笑しくて、俺は思わず彼に近付いた。


「それさぁ、コツがあるんだよ。」

どうしてだったのかはわからない。
どうして彼に俺の声が聞こえたのか。
どうして俺の姿が見えたのか。
どうして俺が自販機に触れることが出来たのか。


「ホラ、ここ。な?」

俺が自販機を軽く叩くと、釣銭がちゃりん、と出て来た。
彼は驚いたようにして俺を見ているだけだった。
ありがとう、と言った彼に、礼なら一本くれと俺は言った。
あの時吸い損ねた煙草を吸いたかったわけじゃない。
そうすれば彼がここに、少しの間でもいてくれると思ったから。
少しの間だけでもいい、一人きりにならずに済むと思ったから。


「あんたさ、この辺の人間じゃないでしょ。」

バス停のベンチで、二人で煙草をふかした。
あの自販機のことを知らないということはこの辺りの奴ではない証拠だった。
それにこの狭い世間で、しかも同い年ぐらいで見たことのない顔だったし。
俺が言い当てたせいか、突然話し掛けて煙草を一緒に吸う羽目になったせいか、彼は少しだけ戸惑って、そして不審がっているように見えた。


「あのさぁ、そういうお前は?この近所か?」

こちらが指摘したのだから、それはごく自然な流れの会話だった。
近所も近所、ここから歩いてすぐのところに住んで……いた、という過去形だけど。


「俺?うん、この近くに住んでた。」

俺は軽く笑いながら、重い言葉と煙を一緒に吐き出した。
そう、俺は今は存在のないもの。
この世にいるはずのないもの。


「あれ?住んでた、ってことは今は?俺みたいに夏休みで来てるとか?」
「まぁ、そんなとこかな。」

突っ込まれたことを訊かれて、適当に誤魔化した。
どうせここの人間でないのならば、何を言っても疑いは持たないと思った。
逆にここの人間だったとしたらきっと大変なことになっていたかもしれない。
いなくなった俺が現れて、「実は俺は死んでます」だなんてそれこそ信じてもらえるわけがない。
見つかったのが彼でよかったと、安堵の溜め息を洩らしながら煙草を灰皿に揉み消した。
それから俺達は、会って間もないというのに時間も忘れて会話に没頭していた。
俺は今までの寂しさを取り戻すかのように彼との会話に夢中になってしまった。


「あ…ヤベ、ばあちゃん心配してるかも。」

それからおそらく一時間程経った頃、彼はベンチから立ち上がった。
ばあちゃん、というのはこの辺りに住んでいる彼の祖母らしい。
夏休み中の彼は、そのばあちゃんの手伝いをするためにこんな田舎まで来たと言う。
隣の家か、その隣の家か、俺は近所の老いた女性を思い浮かべる。


「あのさ、明日もまた…来ないか?」
「あ…、う、うん…。」

見つけてもらえればよかったはずだった。
だけど俺の口から出た言葉は、自分でも驚くような言葉だった。
どうしてもこれで終わりにしたくなくて、行こうとする彼を引き止めてしまった。
突然そんなことを言われて驚いたような表情を浮かべた彼はすぐに頷いてくれた。


「ありがとな。じゃあ、また明日。」
「名前!お前…、名前何?俺、千秋。千に季節の秋って書くんだ…っ。」

礼を言って俺もその場から立ち去ろうとした時、右腕に温かな感触を感じた。
こんなこと、あるはずがないのに。
今までど沢山の人々がこの身体を通り抜けた。
それなのにどうして…。
それだけじゃない、冷たいはずのこの身体の体温が上がるような気さえしたのだ。


「夏生。夏に生まれるで夏生。夏生まれだからって…安易だよな。」

笑いながら掴まれた腕をするりと解く。
もうどれぐらいこの名前を呼んでもらえなかっただろう。
名前の由来は本当の話で、俺はもうすぐ誕生日を迎えようとしていたのだった。
あんなことさえなければ、人並みに誕生日を迎えるはずだった。


「あ!夏生、その〜、夜道には気を付けろよ、なんかお前、綺麗だからさ。」
「大丈夫だって。俺こう見えても男だからさ。じゃあな、千秋。」
「あ…うん…じゃあな…。」

夜道には気をつけろ…か。
それは多分千秋、お前より俺がよくわかっているよ。
わかっていながら、俺は強がりを言う。
それはまた明日、明後日も、千秋に会いたかったから。
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