「あの夏は、幻。」【2】
「あの夏は、幻。」シリーズ
「あれ?ばあちゃん、出掛けるのか?」
ある日の日が暮れた頃、きみ江が深刻な面持ちでいそいそと出掛ける支度をしていた。
見慣れない服を着て、たしなみ程度に薄化粧までしている。
「ちょっとね、佐藤さんとこのお通夜にねぇ。」
「へぇ〜、誰か亡くなったんだ?」
なんだばあちゃんしっかり歩けるじゃん…。
千秋はそれを口に出そうか迷いながらも出さずに心の奥で呟きながら麦茶を飲み干そうとした時、
きみ江の口から出た名前を聞いて心臓が止まりそうになってしまった。
「夏生くんていう息子さんがね。まだ高校生だったのに…。」
「え…?!な…つき…?」
ヤバい…、これは本当に心臓が止まりそうだ。
冷や汗が頬を伝って、息が苦しい。
「暫く行方不明になってたんだよ。気の毒にねぇ…今朝発見されたって。」
「ば、ばあちゃん…それ、夏に…、夏に生まれるって書く夏生…?」
千秋は言葉がしどろもどろになる。
喉がカラカラに乾いて、声が擦れて上手く喋れない。
「そうだよ、知り合いだったかい?母親に似た綺麗な顔立ちの子でねぇ、いい子だったよ…。」
きみ江は深い溜め息をついて、支度を済ませる。
俺、見つけて欲しかったんだよな。
夏生が言ったのは、全然意味不明なんかじゃなかった。
初めて会った日にまた来てくれと言ったのも、会うのがいつも夜なのも。
そう言えばあの時掴んだ腕は…とても冷たかった…。
あの時もう夏生は……。
「千秋?千秋?どうしたんだい。」
千秋はきみ江に肩を強く揺さ振られた。
何をどうされても受け止められなくて、心がバラバラと音を立てて崩れていくようだ。
「顔が真っ青じゃないか。それにその汗…具合でも悪いんじゃないかい?」
心配するきみ江をよそに、千秋は何も言うことが出来なかった。
動くことさえ出来ずに、頭の中で夏生を思い浮かべた。
ただただ夏生だけが、頭の中にいた。
もう会えないかもしれない。
それでもほんの少しの期待を胸に、その日も千秋はバス停に向かった。
全速力で、夏生を思いながら走って。
「夏生、夏生…!」
そして夏生の名前を、何度も呟きながら。
月と星が、美しい夜だった。
同じようにうっすらと蒼白く透明に光る、夏生の姿がそこにあった。
「もう…っ、会えない…かと…っ。」
「うん…最後に、千秋に会いたくて。」
息を切らせて滴る汗を拭いながらバス停に辿り着いて、千秋は椅子に座った。
夏生はいつものように笑って千秋を待っていた。
「最後」
その言葉が、千秋の胸に鋭く突き刺さる。
「俺さぁ、千秋みたいに夜自販機まで来てさ、変な車に…こんな田舎でだぜ?運悪ぃよなぁ〜。」
空を見上げて、夏生は困ったように笑いながら言う。
その空に夏生を連れて行かれそうな気がして、千秋は思わず夏生の身体を引き寄せた。
「わ…笑うなよ…っ。無理して…、笑うなよ…。」
千秋は声を震わせながら強く言って、抱き締める腕に力を込める。
すっぽりと納まるぐらい細い夏生の身体はやっぱり冷たくて、それを肌で感じるてしまうと、益々遠くなる気がした。
「泣けよ…、俺も…、俺も一緒に泣くから…!」
「あのさ、俺…、今日誕生日でさ…なんでだろうな、こんなの…、こんなのありかよ……っ!」
夏生は必死で千秋にしがみ付いて、やっと涙を流した。
何をどう言っても、夏生の悲しみや苦しみは救えないだろう。
ただ抱き締めることで少しでも和らいでくれたなら…。
「俺…っ、もっと…っ、もっとやりたいことも…っ、恋愛もロクにしてないし…っ、まだ何も…!」
千秋のTシャツは、夏生の涙で瞬く間に濡れていく。
途切れ途切れになる夏生の声が、千秋の心をきつく締め付けた。
「いきたくない…、いきたくないよ千秋…っ、俺…、俺はさ……っ。」
もっとお前といたかった。
夏生がそう言う前に、千秋は震える唇に自分の唇を重ね合わせた。
「ごめん…俺…、俺、何もしてやれなくて…、ごめ……っ。」
夏生の唇は実際には冷たいのだろう。
でも千秋には熱く感じた。
こんなにも夏生の心が…夏生の思いが熱いから。
「でも俺…お前がいなくなっても忘れないから…。絶対忘れないから…。」
例え肉体はなくなってしまっても、夏生と過ごした時間や想いは自分の心の中にちゃんと残るはずだ。
記憶という場所にちゃんと夏生は生き続けるはずだ。
「うん、忘れないで。」
今度は夏生の方から、千秋に唇を近付けた。
ついでに我儘言っていいかな。
長いキスの後で夏生は千秋にもたれながら、消え入るような声で言った。
18回目の夏生の誕生日。
千秋は小さな声でハッピーバースデーの歌を歌った。
いつの間にか夏生の瞳からは、もう涙は出ていなかった。
最後は、千秋の腕の中で眠りたいな。
そんなことを言い残して夏生は千秋に抱かれながら、夏の夜に溶けて……
消えた。
空を見上げると、幾つもの星が瞬いている。
夏生もあの中の一つになったのだろうか。
滲んだ視界の中で、閃光のようにキラリと星が光ったような気がした。
まるでそれは夏生が「ありがとう」と言ったように。
千秋はそれに答えるようにその光を見つめていた。
いつまでも、いつまでも…。
「ばあちゃん、俺また来るよ、来年も再来年も。」
「田舎は嫌なんじゃなかったのかい。」
次の日の午後、千秋は縁側に座ってきみ江に言った。
あれだけ田舎は嫌だと言った孫がそんなことを突然言うものだから、きみ江は麦茶を出しながら苦笑いしていた。
「うん…。でも毎年来るから。」
夏生に会いに。
夏生が生きた、この場所に。
「ばあちゃんのことも心配だしな。」
「何を今更言ってるんだい。そんな余計なことは考えなくていいんだよ。」
千秋は麦茶の注がれたコップを充てて腫れた瞼を冷やす。
きみ江は思わず千秋の額を突いた。
その指はとても温かくて、生きている証拠だ。
「俺さぁ、失恋しちゃったんだよな。」
「好き」の一言も言えずに。
もっと抱き合ってキスをしたかったのに。
ちゃんと身体に触れたかったのに、それも叶うこともなく…。
千秋は頭を掻きながら、きみ江に向かって笑顔を作った。
「失恋…した…、ばあちゃん、俺…。」
「いいから泣きな。千秋…、泣きなさい。」
涙がまた込み上げて、千秋は我慢が出来なくなってしまった。
そしてきみ江の温かい言葉に、何かの糸が緩んで床に突っ伏して泣いた。
今まで生きてきて、これほど泣いたのはきっと初めてだ。
枯れるまで泣く、というのはこういうことなんだと知った。
その間きみ江は何も言わずにずっと千秋の頭を撫で続けてくれた。
「千秋も恋なんてする年になったんだねぇ…。」
きみ江は寂しそうに笑いながら小さく呟いた。
自分も年を取った分祖母も年を取り、やがては別れなければいけない。
だから今一緒に過ごせる時間を、大切にしたいと思った。
「田舎にいると、心まで自由になれるだろ?」
そうだった。
今思えば確かにそうだった。
あの時ほとんど抵抗もなく夏生と話すことも出来たのは、そのせいもあった。
「だからあたしはここが好きなんだよ。千秋も疲れたらまたおいで。」
優しいきみ江の言葉が胸に滲みる。
「たまには素直になるんだな」なんて言ったら怒られるだろうか。
「ははっ、ばあちゃんなんだかんだ言って、俺が来たの嬉しいんじゃん。」
「何を言ってるんだいこの子は。」
千秋が冗談めいたことを言うと、もういつものきみ江に戻っていた。
だけど冗談でも言わないとまた泣いてしまいそうだったのだ。
「いや、俺が会いたいからやっぱり来るよ。」
きみ江に、夏生に。
年老いた祖母と、ひと夏の恋に会いに。
「それと今度来る時までには…煙草やめるから…。」
「そうだね、それがいいよ。」
きみ江はふっと頬を緩めて、台所へと消えていった。
灼熱の夏の太陽の光が、また容赦なく全身を照りつける。
蝉がけたたましく鳴いて、一層熱さを感じる。
庭の雑草は、深い緑に萌えている。
なんだかここで過ごしたのが、夢を見ていたようにまるで現実味がない。
夏が見せた、幻。
でも千秋の心の中にはきっと幻なんかじゃなくて、夏生は今も生き続けているのだ。
姿はもうないけれど…。
今度生まれ変わったら「好きだ」って言うよ。
それまでは俺が、ちゃんとお前を憶えている。
絶対に、忘れないから。
また、いつか。
END.
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