「マ グ ネ テ ィ ズ ム」【9】
「マ グ ネ テ ィ ズ ム」シリーズ
翌日も何事もなかったかのように僕は学校へ向かった。
生徒との恋愛のことで悩んでいるだなんて気付かれるわけにはいかない。
しかもそれが男子生徒で、身体の関係まであって、片思いみたいな一方通行で。
なんだかんだ言っても、僕の頭の隅には懲戒免職のことがあるのだ。
どうなってもいいと思いながらも、そこは我ながらずるい大人だと思った。
「ミサキちゃん、おはよう。」
「…あ、おはよう。」
こうして生徒と挨拶を交わすのも、毎日のことだ。
まずはそういうところから生徒と信頼関係を築けるようにした。
授業もできるだけわかりやすく、質問されたことには最後まで責任を持って対応した。
休み時間も何気ない会話に付き合って、時々昼休みも一緒に過ごしたりした。
僕は間違っていたのだろうか。
こうすることで「いい先生」を演じていたのだろうか。
別に無理をしていたわけではない。
でも…とても楽しいわけでもない。
浅岡といる時は辛いこともあったけれど、本当の自分を出せていた。
本当の僕の姿は、浅岡だけが知っている。
学校に行けば会えるのはわかってるけれど、今すぐ浅岡に会いたい気持ちでいっぱいになった。
「じゃあ次、誰か解いてみてくれる?」
「はーい先生、俺わかりませーん。」
「ミサキちゃん、あたしもわかんなーい。」
「ダメじゃないか、ここは前の応用だよ?」
黒板にカツカツとチョークを走らせる。
物理学ならこんなに簡単に生徒に説明できるのに。
生徒向けの問題ならこんなに簡単に解けるのにどうして…。
どうして浅岡のことだけは全然うまくいかないんだろう。
今日も窓の外を見ている、浅岡のことだけは…。
「先生、そこ間違ってます。」
「…え!あっ、ご、ごめんね、えっと…。」
「ミサキちゃんダメじゃーん、嘘教えちゃー。」
「ご、ごめん、えっと…そっか、ここは抵抗の分を引いて…。」
優秀な生徒に間違いを指摘されて、周りの生徒達までざわつき始める。
ミサキちゃん、ミサキちゃんと、親しみを込めた僕の呼び名が教室中に響く。
これでいいんだ、これで生徒にも嫌われずに済む。
こうして生徒の言われるがままにしていれば────僕は本当にそれでいいのか?
「…うるせぇ。」
ざわめきの中で、はっきりと聞こえた声。
紛れもなくそれは今自分が一番好きな人の声だった。
僕は生徒の方を振り向いて、浅岡に視線を向けた。
浅岡はもう一度はっきりと生徒全員に向かってその台詞を吐くと、席を立って教室を出て行こうとドアに手を掛けた。
「…あ、浅岡っ!」
僕が名前を呼んでも浅岡の手は止まらずにドアを開けた。
チョークを黒板の下の溝に投げ捨て教壇を下り、机の間を通り抜け、浅岡が出て行った後ろのドアを目指した。
教室では浅岡に圧倒されてざわめきが止んだ生徒達が、不思議そうに見ていた。
「浅岡…っ、浅岡…!」
僕は廊下に出て、浅岡の後を夢中で追いかける。
走って行ってしまったのか、もう浅岡の姿は見えなかった。
でも浅岡がどこへ行ってしまったのかを、僕は知っていた。
自分の勘と考えが正しければの話だけれど。
バカみたいだと自分でも思う。
一人の人を追いかけて、その人の中に無理矢理にでも入ろうとして。
冷たくされてもいい、傷付けられてもいい、傍にいてその人を救ってやりたいと思うなんて。
どんなに酷くされてもいいなんて。
でもそれが僕の考える愛だと思うから…。
「本当にバカじゃないのかあんた。」
「あ…浅岡…、よかったやっぱりここ…。」
僕の予想通り、物理室へ入ると浅岡が窓際に立っていた。
ちょうど太陽は空の真ん中で、眩しく窓硝子を反射させている。
少しだけ息を切らせて、僕は浅岡の方へ名前を呼びながら近付く。
「バレたらどうするんだよ、あんなデカい声で。」
「大丈夫…。」
「何が大丈夫なんだよ、意味わかんねぇよ。」
「僕は…、僕は浅岡のことだけでいいんだ…。」
浅岡が大丈夫になってくれたら、それでいい。
逆に大丈夫じゃない浅岡を放っておけないし、嫌だ。
自分の職がどうとか、そんなことはもうどうでもいい…。
「それがバカだって言ってるんだよ…。」
「浅岡…?」
浅岡が溜め息を吐いて頭を抱える。
瞳をぎゅっと閉じて、髪をくしゃくしゃと掻き回して。
目線を逸らしたその表情は、昨日のあの表情だ。
初めてのことにどうしたらいいのかわからない子供の表情…。
それから数分間、言葉のない時間が流れた。
だけど僕は、自分から何かを急かすことはしなかった。
きっと今、浅岡は戸惑って悩んでいる。
だからその答えは、どれぐらいかかっても待とうと思った。
やがて何も言わずにいた浅岡が、僕の羽織っていた白衣の袖を緩く引っ張った。
視線と視線がぶつかって、身体の奥から熱が上がる。
「先生、俺のこと愛してくれんの?」
腕を引っ張られて、僕の耳元で小さく浅岡が囁いた。
僅かにその息が耳の中に入って来て、心臓が跳ねるように動いた。
唇が今にも触れそうで触れないのがもどかしい。
「僕は浅岡を愛してるよ、好きだよ…。」
僕は浅岡に対する何度目かの告白をして、自ら唇を求めた。
キスの激しさは変わらなかったけれど、これから浅岡が愛することや愛されることを知ってくれるといい。
もちろん、そんな浅岡と共に自分も変わっていけるといい。
熱い舌を絡ませながら、僕達は何度も何度もキスを繰り返した。
浅岡には愛が足りなかった。
僕には一歩踏み出せる勇気が足りなかった。
己の欠落した部分を埋めるために、人は人を求めるのだと思う。
世の中に何億の人間がいる中で、そのたった一人の欠片を探し続ける。
外を眺めていた浅岡の視線はそう求めて発する磁力みたいなもので、それは「愛して欲しい」というサインだったのだと思う。
居場所がないと暗い闇で叫ぶ、子供のサインととてもよく似た────。
「あ……、浅岡…っ、浅岡…っ!」
「先生、愛してくれるんだろ?」
首筋をきつく吸われて、紅い斑点が皮膚に刻まれる。
シャツの中に侵入してきた浅岡の手を、僕は振り解くことはしない。
ここが学校で授業中だとかはもう考える必要などない。
この熱い身体で、冷たい浅岡の記憶まで温めてあげたいということだけだ。
浅岡、君が僕を求めてくれるなら。
僕は何でもできる、何でもしてあげる。
今は酷くされてもいい。
いつか僕の愛で君のその心を完全に解かすことができると、信じているから。
「浅岡……っ。」
僕は、信じているから。
END.
back/index