「マ グ ネ テ ィ ズ ム」【1】
「マ グ ネ テ ィ ズ ム」シリーズ
今まであんなに寂しい瞳を見たことがなかった。
そしてあんなに熱い瞳を見たことがなかった。
窓際の後ろから二番目の席で、いつも彼はずっとどこか遠くを見つめていた。
それが一体どこなのかはわからない。
教室の中で彼だけが別世界に生きているように思えた。
その姿があんまり強く印象に残って離れなくて、教壇に立つ僕はいつも視線を向けてしまっていた。
それはまるで強力な磁石に吸い付けられるような感じで、気が付くと釘付けみたいに彼だけを見ていた。
「ミサキちゃーん、今度の追試見逃して!」
「ダーメ。」
「そんなこと言わないでよー、ミサキちゃん。」
「こら、先生って呼びなさい。」
新米教師なんてこんなものかと思う。
まだ嫌われないだけマシかもしれない。
この学校で教鞭を取るようになって半年が経つ僕は、生徒から「ミサキちゃん」などととっくに成人した男らしからぬ呼び方をされている。
ナメられてると言えばそんな感じもするけれど、逆に親近感の湧く教師だという褒め言葉もある。
どっちがいいとか悪いとかは、僕にはまだよくわからない。
「あっ、ミサキちゃん、お昼一緒しよ?」
「僕はいいよ、職員室で食べるから。ごめんね。」
自分で言うのも変だが、若い男性教師というものは特に女生徒にはそこそこ人気があるものだ。
それならそれでいいか、と自分で自分を納得させていたら半年が過ぎていた。
嫌われるどころかどちらかと言うと好かれているのならば、僕自身はそれでいいと思っていた。
ただ一人を除いては。
「ふうぅ───…。」
まだ教師の一年目である僕が、大勢のベテラン教師の中でリラックスして昼食を取ることなんて出来るわけがない。
生徒達には職員室と言ったけれど、実はいつも向かうのは自分の担当する物理の特別教室だった。
僕にとってはそこだけがこの学校での居場所だと思っていた。
今日も通勤途中のコンビニで買って来たパンを持って物理室へと向かう中、
廊下ではたくさんの生徒たちが友達と話したり携帯電話をいじったりしている。
まさに今時の高校生そのものだ。
カラカラと静かな音を立てて、僕は物理室の引き戸を開けた。
ちょうど午後の早い時間の物理室は、窓から太陽が燦々と差し込む場所だった。
その反射した光のせいで、そこに誰かがいるということはちゃんと中まで入らないとわからなかったりする。
「誰かいるの…?」
窓の桟にぼんやりと腰掛ける人影が見えて、僕は不安になりながら声を掛ける。
何歩か進むと太陽はちょうどその人物をくっきりと映し出した。
それが誰なのかわかった瞬間、僕は息を飲んで身体が固まってしまった。
「あ…、浅岡…、どうしたのこんなところで。」
今僕の心の中を一番占めているその人物は、問いかけても何も言わない。
ちゃんと息をしているのかと心配になるぐらいだ。
それよりも自分の心臓の音が聞こえてはいないかが気になって仕方ない。
「浅岡…?」
スラリとした長身の浅岡一穂は、自分が担当する二年生の生徒のひとりだ。
必死になって授業を進める中、始めは自分の話を聞いていないのかと不快に思ったことから始まり、暫くしてあの瞳に気付いてしまった。
「あさお…。」
「先生こそ何してるんですか。」
やっと口を開いたかと思えば質問が自分に跳ね返って来て、僕は何も答えられなくなってしまった。
この心臓の音をどうすればいいか、それだけしか考えていなかった。
こんな場所で、他に誰も知らない場所で浅岡と会うなんてことは予想もしていなかったのだ。
「僕はその…ここでお昼食べるのが好きで…。だから…。」
「あぁ、先生も生徒もうるさいから?」
「そ、そんなところかな…。」
「ふーん、そう…。」
この気まずい空気は一体何なんだろう。
会話をしているようで、まるで会話になっていない。
「ここは自分の場所だ」と間接的に言い、パンを机に置いたり椅子に座ったりもしているのに、浅岡は一向にここから出て行く気配がない。
このまま浅岡がいる前で何も気にせずに食べろとでも言うのだろうか。
「浅岡はお昼食べたんだ?」
「いや…。」
「じゃあこれ…、僕はこんなに食べ切れないし。」
「いらない。」
僕が差し出したパンに、浅岡は触れることはなかった。
それどころか顔を窓のほうに向けて、やっぱりここから去ろうとはしない。
この場合、どういう意味に取ればいいのかわからない。
「じゃあ購買で何か…。」
「…ぷ……。」
「えっ、何?なんで笑うの?」
「いや…。」
浅岡の笑った顔なんて見るのは初めてだった。
今何か笑われるようなことを言ったのかと考えてみるけれど、そんな要因がまったく見つからない。
それどころか考えるのに夢中で、浅岡が近付いて来ることにも気付かなかった。
「先生って、偽善者っぽいよな。」
「そんな…、僕はただ…。」
「ただ何?生徒に好かれたい?いい先生って思われたい?」
「そんなことは…。」
「ない」とハッキリ言うことが自分にできるのだろうか。
握った手が小刻みに震えて、額から汗が滲む。
それはもしかしたらそう見てる人もいるのではないかと、心の奥底で思っていたことだったからだ。
その不安がたった一人の生徒によって決定的になったみたいで、ショックと悲しみで僕はこの場からいなくなりたかった。
「あぁ、若い女に好かれたいんだ。」
「そうじゃな…。」
浅岡がこんなに酷いことを言う人間だとは思っていなかった。
こんなことになるなら、ただ見ていただけのほうがよかったかもしれない。
自分よりずっと年下の人間に、自分の生徒に泣かされそうになるなんて…。
「それとも若い男に?あんたそっち系にモテそうだもんな。」
「あ…浅岡っ、言っていいことと悪いことが…!」
「可愛い顔したミサキちゃん、だもんなぁ?」
「あさお……っ!」
掴まれた手首が痛い。
奪われた唇が痛い。
自分を見つめる視線が痛い。
何よりこの胸が張り裂けそうなほど痛い。
「あさ…っ、ん……!」
激しいキスで、差す太陽の光で、クラクラと眩暈がする。
瞼を閉じていても、浅岡の熱い視線が突き刺さるように痛い。
こんなに激しいキスは生まれて初めてだった。
こんなに激しく心を揺さ振られるキスを、今まで僕にした人間などいない。
あまりの苦しさに、自分の目の端に涙が滲んだのがわかった。
全身が痺れて眩暈は一層激しいものに変わり、唇が離れた途端僕は膝から床に崩れ落ちていた。
「あんたすげぇ反応すんのな。」
掴まれたままの手首が、鬱血しそうになるほど締め付けられる。
全身の血が逆流し脳内は酸素不足で、僕は今にもどこかへ行ってしまいそうだった。
なんとか意識を取り戻そうと、もう片方の手で自分の頬を叩く。
「いっそ女のほうがよかったんじゃないか?名前も可愛いし。」
次々と降ってくる非情で残酷な言葉が、僕の耳の奥まで容赦なく侵入してくる。
どうして浅岡はこんなことを言うのだろう。
どうして僕にキスなんかしたのだろう。
ぐるぐるとそんな考えばかりが巡って、それはもう出口なんて一生見つからないような気がした。
「僕は…、僕は三崎は名字で…。」
下の名前は匡貴って言うんだ。
そんな言葉さえ声にならずに宙を泳ぎ続ける。
僕は床に座り混んだままで、浅岡はこちらを見向きもしないで引き戸を開けた。
「どうでもいいよ、そんなこと。」
まるで心臓を生で掴まれて抉られたような気分だった。
地獄へと突き落とされて一気に底へと墜落していくような、絶望的な気分。
それと同時にハッキリとわかったのは、自分が彼に対して恋心を抱いているという事実だった。
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