「月のうさぎ」-1
今日も、月が綺麗だ。
子供の頃から変わらない大きな丸い月。
あの月を見て悲しいと思うようになったのは、いつからだろう。
「尚ちゃん!やっぱりベランダにいた。」
自分の名前を呼ばれて見下ろすと、笑顔の光宇が突っ立っていた。
変わらない笑顔と、変わらない呼び名。
生まれた時から家が隣で育った俺達は、いわゆる幼馴染みと呼ばれる類の関係だ。
随分前に家を出た俺は、今は一人でこのアパートにいるけれど。
「上がっていい?」
「…うん。」
光宇はすぐにそこから走っていなくなった。
きっと今頃、階段を急いで駆け上っているだろう。
手には、近くのコンビニで買った食べ物やら飲み物を持って。
「開いてるよ。」
コンコン、とドアをノックする音がして、月を眺めたまま答える。
きっと来ると思っていた。
絶対来ると思っていた。
お前が遠慮しないように、開けておいたんだよ。
「お邪魔します。ねぇ、新発売のお茶が出てたよ。」
「物好きだな、お前。」
「あとチョコレートも。これなんか尚ちゃんでも食べられそう。」
「相変わらず新しいもん好きだなー、お前は。」
呆れたように呟いて、光宇からお茶とチョコレートを受け取る。
そういえば、チョコレートが苦手になったのは、いつからだろう。
こんな風に光宇がお茶だの何だの持って来るようになったのはいつからだろう。
そして何もせずに二人で月だけ見て過ごすようになったのはいつからだろう。
「俺…、新しいものしか目に入らないからダメなんだね…。」
「…ごめん。」
光宇が自分の性格を恨むようになったのはどうしてだろう。
光宇の笑顔の中に隠れた涙を見るようになったのはどうしてだろう。
こんな気まずい思いをして俺が謝るようになったのはどうしてだろう。
ここにいるべき人間が、一人足りなくなったのは…?
いつからだろう、どうしてだろう。
◆◇◆
数年前、高校生だった俺の家の隣には、光宇と光宇そっくりの人間がいた。
光宇そっくりなのか、それともその逆なのか。
とにかく、光宇の双子の兄の由宇という人間が、確かに存在していたのだ。
「ねぇ、尚ちゃん、光宇の奴、彼女が出来たの知ってた?」
「え、知らねぇ…。そうなのか?」
「うん、昨日打ち明けられたよ。」
「へえぇー…。そっか。じゃあ由宇も負けてらんねーじゃん。」
ある日、いつものように俺の部屋に遊びに来た由宇の話を何気なく聞いていた。
由宇の好きなチョコレートを摘みながら。
甘いものはそれほど得意ではなかったけれど、
由宇に付き合って食べているうちに、
いつの間にか俺までチョコレートが好きになっていた。
光宇に彼女が出来るのは初めてのことで、俺も驚いたぐらいだ。
顔はよく似ている。
一卵性なのだから、納得できる。
性格も二人はよく似ているはずだった。
明るくて、何事にも前向きで、いつも笑顔なはずだった。
「…そうだね。」
俯いて寂しそうに呟いた由宇は、俺が知っている由宇とはまるで別人だった。
顔が似ていても、光宇とは全然違う。
いや、もしかしたら顔も全然違うのかもしれない。
俺が今まで、気付かなかっただけで…。
それから由宇は、目に見てわかるぐらい、変わっていった。
他人には気付かないかもしれない。
だけど幼い頃から見ていた俺の目には、はっきりとわかった。
「光宇の奴、またデートだって。」
「寂しいよね、俺達いつも三人だったのにさ。」
「兄弟なんてこんなもんかな。」
儚げに笑いながら言う由宇の、心の奥底がはっきりと見えた。
そしてそれを救えるのは自分だけだと、俺は自信過剰になっていたのだと思う。
「尚ちゃん、うさぎってさぁ、寂しいと死んじゃうってホントかな…。」
「えー?そんなの迷信じゃないのか?」
明るく笑い飛ばすことで、由宇を救えると思い込んでいた。
由宇には前みたいに笑って欲しい、そう思ったから。
光宇の分まで俺が傍にいて笑わせればいい。
「それなら俺は、月のうさぎになりたいな。」
「月のうさぎ?」
「だってさ、いつも餅つきなんかして楽しそう。それにいつも皆見ててくれるしね。」
「あぁ…。」
由宇が指差した向こうには、ちょうど満月があった。
その日は雲ひとつない晴れた夜空で、いつもより月の光が明るいような気がした。
由宇が言う通り、楽しそうに餅つきをするうさぎの陰もくっきりと見える。
そんな童話めいたことを言う由宇を、幼い奴だと笑うことが出来なくなっていた。
それは多分、月の光の魔力のせいだ。
それこそ童話めいているけれど。
「尚ちゃん、俺…。」
「いいよ、言わなくていいよ…。」
生まれた時から光宇と一緒にいる由宇の胸の中が痛いほどわかる。
同じ血を分け合って、同じ時間に生まれた光宇が離れていく。
俺達は三人一緒だったけれど、中でも二人は俺にはわからない繋がりがあったのだ。
その繋がりが、光宇の初めての彼女という存在に断たれてしまったのだ。
そんな由宇の寂しい思いが俺にはわかる。
そしてそれが恋だと気付いてしまった辛さも。
由宇本人も、気付きたくなかっただろう。
だからあんなに思い悩んで、日に日に元気がなくなっていったのだ。
「尚ちゃんは、俺を置いていかないよね…?」
「そんなことするわけないだろ…。」
子供の頃以来の由宇の涙を見た瞬間、俺の中で何かが崩れたみたいだった。
月明かりの下で、夢中で由宇の唇を貪っていた。
さっき食べたばかりのチョコレートと由宇の唾液の味が混じって、その甘さに眩暈まで起こしそうだった。
それだけじゃない、両親が不在なのをいいことに、俺は…。
「尚ちゃん…っ。」
キスをしたら止まらなくなってしまった。
幼馴染みとしか思っていなかった。
それ以前に、同じ男だということも十分わかっていた。
だけど止められなくて、どうしようもなくて、由宇を抱いてしまった。
「尚ちゃん……、尚ちゃん…っ。」
しなる細い背中や、時々上げる甘く高い声が、やけに艶かしかった。
痛みと共に押し寄せる快感で滲む涙が、この世の誰よりも、何よりも綺麗だと思った。
俺は何も、好きだと言うことも出来ずに、ただその身体を慰めるようにして抱いた。
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