「スターの茨道」-1



中学生の頃、初めてライブハウスという場所に行った。
その時なんと言うバンドが演奏していたのか、それが誰かなんてことはもう覚えていない。
ただ、狭い空間で羽を広げて飛んで行きそうなほど、気持ちよさそうに演奏していたのだけは、あれから数年経った今でも鮮明に思い出すことが出来る。
楽器のことも、歌のことも、はっきり言って何も知らなかったけど。
彼らがしている演奏が、世界一素晴らしいものに見えた。


「え?大学やめる?」
「うん、実はもう退学届出して来たんだよなー。」
「だってお前、あと一年で卒業…。」
「俺はやっぱりやりたいことやりたいんだよ。じゃあな、急ぐから!」

一番仲のいい友人にさえ今日の今日まで黙っていた。
苦労して入った大学もやっと三回生になって、このまま行けば順風満帆な人生が待っているはずだった俺が、
それを蹴り飛ばしたことを、勿体ないと思うだろう。
だけど就職を考えた時に、このまま普通の社会人になんかなりたくなかった。
人生は一度切り、今やらなくてどうする、あくまで前向きな考えで退学を決意した。


「緊張するなぁ…。」

電車を乗り継いで、普段遊び慣れた街へ辿り着く。
人混みを掻き分けて、目指した先はとあるビルのワンフロアだった。
昔から、歌うことは好きだった。
カラオケに行って友人に褒められれば調子にだって乗ってしまっていた。
口で言うほど甘くないのはわかっている。
両親に大反対されてまでやめたんだ、それなりの覚悟も出来ている。
何も知識がない俺がまずすることは、レッスンに通うことだと思った。
だからこうして今、体験レッスンの教室の前に立っているのだ。


「いざ!たのも……痛ってー!!」
「うわ!誰かいたのかよ?!」

ドアに思い切り力を入れて中に入ろうとした瞬間、そのドアが自分目掛けてぶつかった。
勢いよく突き飛ばされた俺は、そのまま床に叩き付けられてしまった。


「うー…痛ぇ…。」
「大丈夫か?」

若い男の声がして、腕を引っ張られる。
支えられながらなんとか立ち上がったけれど、まだ目の前がスパークした状態だ。


「気をつけろよもう…。」
「あれ?もしかしてお前、今日からレッスンの狭川か?」
「えっ!そうだけど…。」
「俺が担当の黒田だ。初対面でタメ口か?今時の高校生は生意気だなぁ?」

そんなこと言うあんたこそ随分エラそうじゃん、なんてぶつくさ文句でも言ってやりたかった。
言葉とは裏腹に綺麗な声を耳にしながら、振り向くと、やっぱりどう見ても若い男だった。


「俺…、高校生じゃないんだけど。」
「ないんですけど、だろ?まぁいいや、入れば?」

おずおずとその男の後をついて、中へ入る。
さっきぶつけた額がじくじくと痛んだけれど、なにせこちらは金を払うことになるのだ。
この体験レッスンがこの先を決めることになる。
一分一秒でも、時間は勿体ない。
もっとも、正式に入学したとしてもこの男だけは担当にならないように頼むつもりだ。


「荷物はそこ、じゃあ早速始めるぞ。」
「え…。」
「何?どうかしたのか?」
「あ…、いや、なんでもない……です。」

言われるがまま、荷物を置いて、電子ピアノの前に立った。
黒田が今までかけていたサングラスを外した瞬間、ドキリとしてしまった。
そのサングラスでよく見えなかった素顔は、男前そのもので、一瞬視線を奪われた。
綺麗な声に相応しい、あまりにも綺麗は顔に…。
って、相手は男だ、何見惚れてんだか…。


「ほんじゃ声だけ聞かせてくれ。俺の後について同じ音で、ま、でいいや。」
「ま…、わかった…、いやわかりました。」

指示されたように、黒田のピアノと声の後を追って、俺は人生初の声出しなるものを経験した。
作られた電子音なのに、優しいピアノの和音が心地いい。
話す声と同様に、綺麗な黒田の声が自分の声と重なって心地いい。
あんまり気持ちがよくて、時間も何もかも忘れてしまいそうだった。


「お前…、いい声してんなぁ。」
「えっ、本当?…ですか。」
「音感はまぁそこそこ…、時々ずれるけど…そこまでひどくないし。」
「へぇ…。あんまりよくわかんない…ですけど…。」

専門用語を出されても、俺には何がなんだかさっぱりだ。
だけど黒田が褒めているのは事実で、嬉しいのも事実だった。
友人に褒められるのとは全然違う。
ちゃんとしてるかはわからないけれど、教える立場の人間に褒められたのだ。


「お前、俺について来る気ある?」
「えっ、あのー…。」
「特待生でレッスン料タダにしてやるよ。」
「えっマジで?!あ、本当ですか!」
「かなり気に入った。やる気あるか?」
「は…はい!!」

俺は、褒められて本当にいい気になってしまっていた。
タダより高いものはない、そんなうまい話はない。
ちゃんと大人達が言うことを聞くべきだった。
だけど親に猛反対されて生活費もバイトで稼がなければいけない立場としては、タダという言葉は魅惑的なのだ。


「んじゃほら、契約書、名前と印鑑な?」
「はいっ!よろしくお願いしますっ!」

その日から、俺の茨道は始まったのだった。







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