「All of you」-18




温かい肌に包まれて、とても幸せで穏やかな夢の中にいるようだった。
この夢がこのままずっと続けばいいのに…そう願わずにはいられなかった。


「…ん……。」

しかし夢と言うものはいつかは覚めてしまうものだ。
それでもこの現実の世界で、私は生きて行こうと思う。
洋平と一緒ならそれが出来る。
恐いものが何もないわけではない、不安がまったくないわけでもない。
そういった時になっても洋平が傍にいてくれるならば、この腕を掴んで一緒に歩いてくれるならば、私は乗り越えられると思うのだ。
ただ生温いお湯に浸かっているのも良いかもしれない。
しかしそれではつまらないではないか。
波があってぐらついて時々躓きそうになるからこそ、私達は変化し続けるからこそ、その度に深まって行くのが恋だ。
そしてそれが私の選んだ道というものだ。


「あ…起きたか?」
「…ん……?」

早朝に身体を繋げてから眠りに就いてどれ程の時間が過ぎたのだろう。
身体はやはり重いまま、あちこちが痛んでいたが、不思議と目覚めがすっきりしている。
こんなにもぐっすりと眠ったのは久し振りかもしれない。
そう言えば今日は、あの悪夢も見なかった…。


「すっげーよく眠れたみたいだな。」
「え…あ……あぁ…。」
「起こすの申し訳なくてさ。」
「え……?あ……?」

傍に寄って来た洋平に支えられ、私は何とかして布団から起き上がった。
窓の向こうを見つめると、そこはもう真っ暗だった。
布団の近くに置いてあった時計を見ると、今朝起きた時からほとんど時間が経っていない。
あれ程眠ったと言うのに、まだそれしか経っていないと言うことは、短いながらも随分と深い眠りだったのだろうか。


「腹減っただろ?今日は俺が夕ご飯作ろうと思ってさ。」
「夕…ご飯……?」
「うん、まぁ俺は元々料理が苦手だから、銀華みてーな立派なのは絶対無理だけどな。」
「その…い、今は一体何時なのだ…。」
「え?夜の7時過ぎだけど…。」
「よ、夜……?!」

どうやら私は時計の針一周分以上眠ってしまったらしい。
普段生活していてもこれ程の時間眠ることはない。
喩え洋平が休みの日だとしても、いくら身体を繋げた翌日でも、少しは遅いがきちんと朝には起きているのだ。
朝まで起きていたとしてもこれ程長い時間を眠りに費やすことなどないのに、このようなことになるとは…自分でも驚いてしまった。


「え…?ど、どうかしたのか?」
「わ…私としたことがすまぬ…!このような堕落をしてしまうとは…!う……っ。」
「え?い、いいって…!ほ、ほら、無理すんなって…。」
「し、しかし……。」

急いで立ち上がろうとして身体を動かすと、やはり全身に鈍い痛みが走って思わず顔を歪めた。
洋平が咄嗟に出した腕に助けられたが、危うく顔から落ちるところだった。


「だってほら…俺のせいでもあるし…。」
「ば……っ!」
「馬鹿者?」
「わ…わかっているならそのような恥ずかしいことを言うな…っ。」
「うーん…でも俺はその馬鹿者だからわかんないんだよなー。」
「お…お前……。」

洋平の開き直りとも言える卑怯な技は、まだ続いていた。
何だかこちらの反応を見て楽しんでいるようにも見える。
私は悔しさと恥ずかしさで何も言えなくなって、自分の唇をぐっと噛んだ。


「んじゃあほら、ご飯にしようぜ?な?」
「………。」

質が悪いのは、ある程度突っ込んだところでやめることだ。
洋平はそれ以上言えば私が本気で怒るとわかっていて、その寸前でやめてしまうのだ。
恥ずかしい思いをさせるだけさせておいて、私の自尊心だけは傷付けない。
優しいのか意地が悪いのか、わからなくなってしまう。
いや…相手が洋平ならばどちらでも良いのかもしれない。


「ちょっとは頑張ったんだぜ?愛妻料理。」
「ば…馬鹿なことを言うな…っ。」
「あ、そっか…愛妻じゃなくて愛夫料理か?っていうか俺が夫って決め付けるのもあれか…。」
「そ、そこを言っているのではない…っ!」

何が愛妻だ…愛夫だ…。
私達は夫婦でもなければ、そうなることも出来ないと言うのに…。
おまけにお前のその格好は何だ、顔に似合わない可愛らしい前掛けなど着けて…それこそ何処の妻だと言いたくなってしまうぞ…。
それは以前志摩から私がもらったもので、絶対にこのような物はしないと思ってしまっておいたものだ。
どこからそんな物を引っ張り出して来たと言うのだ…。


「身体に優しいかと思って…おかゆ?リゾット?どっちだろ?」
「………。」

私がぶつぶつと文句を呟くのなど聞きもしない様子で、洋平は一度台所へ行き、笑顔で鍋を持って戻って来た。
ほかほかと立ち昇る湯気と共に、何とも言えないまろやかな優しい匂いが漂う。


「卵と牛乳とか入れてみたんだ、そんな不味くはないと思うけど…。カルボナーラみてーな味かな。」
「カル…何だそれは…。」
「え?あ、そっか!銀華食べたことないのか!スパゲッティーの一種だけど…。」
「洋平…、その…お前は…。」

聞いたことのない料理の名前に、匙を握る私の手が一瞬止まってしまった。
過去のことが解決したはいいが、まだまだ私と洋平の間には問題があったのだ。
一つのものが解けたからと言って、すべてをうやむやにして良いというわけではない。


「何?どうした…?」
「お前はその…やはりそういった料理が好きなのか…?」
「え?あー…。」
「それならば無理をして私の作った物を食べることはないのだぞ…。」

今ならば言おうと思っていたことが言える。
これからはそうやって少しずつ言っていかなければならない。
そうすること…少し勇気を出すことで、すれ違いや誤解を防ぐことが出来るのだから。


「あのさ、それ…気にしてただろ?」
「わ、私はお前に訊いているのだ…。」
「無理してんのって銀華じゃないのか?この間シロと志摩が来た時無理してピザ食ってただろ?俺が止めたのにそれでいいとか言ってさ。」
「私は別に無理など…ただ慣れていないだけだ…。」
「そうか…?それならいいけど…。」
「それよりも私に質問に答えろ…。」

あの時のことを洋平は気付いていたのか…。
確かに私はあのような料理に慣れてはいないし、最初は受け付けないと思っていた。
しかし実際に口にしてみて、それ程不味いものではなかった。
ただ慣れていないだけで、無理をしていたわけではなかったのだ。


「俺?俺は全然だけど?」
「し…しかし…。」
「確かにピザとかも好きで時々食べることもあるけど…別にそこまで食いたいってわけでもないし…。あれば食うけど何がなんでも食いたいとか思わねーよ。」
「そ…そうなのか…?」
「うん、そうだよ。だってさ、俺にはそれこそ愛妻料理作ってくれる人がいるもんな?」
「ま…また下らぬことを…。」
「下らなくねーって!俺、感謝してるんだからな?弁当だってすっげー有り難いって思って食ってるよ、毎日。」
「洋平……。」

思い込みと言うものは恐ろしいものだ。
不安材料がある時はこうして勝手に相手の思考まで決め付けてしまうのだから。
洋平は嘘を吐けるような人間ではないし、吐けたとしても私に対して嘘を吐くことはない。
真っ直ぐに向けられる視線から言っても、それは本心だろう。
これを信じるか信じないかが、その時抱えている不安材料によって変わってくるのだ。


「だからさ…また明日から作ってくれるか?なぁ頼むよ、銀華。」
「そ…れは良いが…。」
「あー…よかったー!俺もうお前の作ったもんじゃなきゃ頑張れねーよ。あのご飯と弁当ですっげーやる気満々になるもん。」
「ちょ…調子のいい奴だな…。」
「うん、調子いいよ。俺はお前が傍にいてくれればいつだって調子いいんだ。」
「な……っ。ば、馬鹿なことを言っていないで…。」

またそうやって、馬鹿なことばかり言うのだな…。
何を言ってもそのように返されるのであれば、私はもう何も言えなくなってしまうではないか。
嫌なことを言われているわけでもないし、どちらかと言うと嬉しいことばかりなのだから…。


「んじゃあはい、あーん?」
「……は?」
「は?じゃなくて、あーん!」
「な、何を……んぐ!」

洋平はぼんやりとしている私の手から匙を奪い、作った粥らしき物の中に突っ込んだ。
あろうことにそれを掬うと、私の口元に差し出したのだ。
そして何をしているのだ?と言う暇もなく私は口の中にそれを押し込まれていた。


「どう?美味い?それとも不味い?」
「…不味く…はないが……。」

私は余りにも突然のことに驚いてしまい、ただ呆然としてしまった。
押し込まれた粥を口の中でもごもごと噛み砕き、ごくりと飲む。
呆気に取られたせいで、そんな普通の行動を取ってしまった。


「そっか、よかった…あ、付いてるぞ?」
「な……な……!」
「はい、もっと食うだろ?あーん?あれ?どうし……。」
「な…何っ…をす……な、なな何をする…の…だ……。」
「ぎ、銀華…?」
「そっ、そそ…そのような真似っ、ま…真似はするな…と…言ったはずっ、ではない…か…っ。」

洋平は私の口元に付いた粥をぺろりと舐め取ってしまった。
調子に乗って再び食べさせようとしても、当の私は全身が固まってしまっていた。
言葉も上手く出て来ない状態で急に顔が熱くなっていくのを見て、洋平の方が焦ってしまい、心配そうにしている。


「え…ちょっと…うわ…。」
「な…なぜお前は……っ、私の言うことが…っ。」
「あのさ…マジで可愛いんだけど…!」
「な…またそのような……っ!な、何をする…っ、離せ…!」

まさか下らぬと言って拒否し続けたようなことでこのような状態になってしまうとは…。
不覚と言うか何と言うか…これでは洋平の思う壺どころの話ではなくなるではないか…。
私は一体何時からこのようなことになってしまったのだ…!


「だって可愛いもんは可愛いんだから仕方ないだろ?」
「わ…私はシロや志摩とは違う…っ!あのような小さな子供では…!」
「うん?わかってるよ。だけど大人でも可愛いもんは可愛いんだよ!」
「へ…屁理屈を…っ。」
「もう皆に見せびらかしたいぐらい。マジで可愛い…。」
「や…やめろ…!だいたいっ、お前は嫌がっていたではないかっ!店の女子にも隠していただろう…!」

私はあっと言う間に洋平に抱き抱えられ、まるで赤子のような扱いをされている気分だった。
このような姿を誰かに見られて堪るものか…!
シロや志摩、桃や紅辺りはまだましだ、青城やシロの恋人になど見られたら…私の自尊心はぼろぼろだ。
洋平とてそれは望んでいないはずだ。
あの時…店に忘れ物を届けに行った時に必死で隠そうとしていたのだから。


「え…だってあれはさ、銀華が嫌だと思ったから隠したんだけど…言っていいなら俺言っちゃうけど?」
「だ、誰が言って良いなどと…!」
「っていうかさ、理香ちゃんにはもうバレてるんだよなー…。」
「は……?!」
「俺が弁当持って来てない時に色々突っ込まれて…倒れて兄貴に電話してくれた時も兄貴と話してるうちにおかしいとか思ったらしくてさ。銀華が寝てる間にシフトのことで電話かかって来て、もう誤魔化しきかなくて言っちゃったんだよ、俺。」
「な……!」
「あ、大丈夫、理香ちゃんはそういうの軽蔑とかしないって言ってたし。お前が来た時点で変だと思ってたらしいんだよな、すんげー睨んでたらしいじゃん?」
「わ…私のどこが…!」

あの女子…ただの単純で馬鹿だと思っていたが、違っていたらしい。
私が見ていたのをそう感じていたのか…。
人間に悟られるようでは、私も大したことが無い。
それもわかっていながら黙っているとは…親切なのか余計な世話なのか、というところだ。
しかし洋平が言うのだから、前者の方なのだろう。
私はまたしても人間と言う生き物に助けられ、良いところを見てしまったような気がする。
それも洋平といなければ気付くことなどなかったかもしれない。


「まぁまぁそう怒るなって、な?」
「怒ってなどいない…呆れているだけだ…。」

愚かだった己に。
人間を信じることが出来なかった頑固で物分りの悪い己に。
ただそんな己に呆れて反省して、落ち込んでいるだけだ。


「まぁそこも可愛いんだけどな。」
「う…五月蝿い…っ。」
「あのさ…俺、銀華が好きだよ。ホントにお前が大好きなんだ。すっげー好きなんだ。」
「う…うる……。」
「だってホントだもん。俺のこと信じてくれるよな…?」
「わ…わかったから…。」
「よかった…。」
「………。」

にこにこと笑う洋平の口から出るのは、私をおとなしく素直にする魔法の呪文だ。
私はその魔法にかかりながら洋平の腕に包まれ、頬に優しく口付けをした。
この先何があってもこの腕を掴んで共に生きて行きたいと願いながらする口付けは、粥と同じくまろやかで優しい味がした。






END.






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