「All of you」-1




己が幸せであればある程、何処かで罪悪感のような痛みが生まれることがある。
それでも今のこの幸せを壊したくないという思いの方が大きかった所為で、それに屈することなく来れたのだと思う。
その二つの相反する思いの均衡が上手く取れなくなった時…私はきっと洋平と共に生きて行くことは出来なくなるだろう。
それは言葉に表すことなど出来ぬほどの恐怖と絶望だと、私は想像しただけで手に取るぐらいわかるのだ。


銀華、愛してる…。
あぁ、私もだ…。
ずっと傍にいてくれないか。
あぁ、傍にいる…私はお前から離れぬ…。
だからお前も私を決して離さないでくれぬか…。

甘い息と共に吐き出される甘い言葉に、私は眩暈を起こしながら溺れた。
蕩けるような口づけは、硬くなった私の心までを溶かして行く。
もうこのまま死んでも良いと思った。
このまま好きな人間と一つになりながら、この世の果てまで堕ちても良いと思った。

ごめんな…約束守れなくて…。
ごめんな…銀華…愛してる……。
待ってくれぬか…!
私を置いて何処へ行くと言うのだ。
私を一人にして、お前は何処に行ってしまうのだ。
これ程までに恋をさせておいて、お前は逝ってしまうと言うのか…?
そのようなことをしたら私は許さぬぞ…。
わかっているのか…?
わかっていながらもお前は私を置いて行くのだな…。

───うん、だって銀華はそいつのことが好きなんだろ?
ずっと忘れられないんだよな?
100年以上経った今でもそいつのことが好きなんだよな?
俺のことなんか最初っから好きじゃなかったんだろ?
わかってたよ…でも信じてたんだ…。
だけどもう終わりだな、俺達…。


「…よう………っ!!はぁ…っ、はぁ……っ。」

気が付くと私は、全身にびっしょりと汗をかいた状態で布団の中にいた。
まだ暗い室内では、隣で規則正しい寝息の音が聞こえる。


「ん……銀華…?」
「はぁ…はぁ……。」
「何…?どうした…?」
「すまぬ…起こしてしまったな…。」

いくら夢と言っても、あの内容はないだろうに…。
途中までは遥か遠い昔の記憶、最後に洋平が出て来るなど…有り得ないにも程がある。
有り得ないはずなのに、あんなにも現実的に感じてしまったのは何故だろう。
今聞こえる洋平の声よりも、夢の中の洋平の声の方が現実に思えるのは何故だろう。


「何?悪い夢でも見たのか…?」
「あぁ…。」
「そっか…。よいせっと…。」
「お、お前は起きなくても良い…。」

やっとのことで呼吸を落ち着かせ、ぐったりと項垂れていると、洋平が瞼を擦りながら起き上がった。
明日も夜が明ける前に起床しなければならないのに、これではゆっくりと休めない。
そのような迷惑を被るわけにはいかない…。


「よしよし。大丈夫か?」
「おっ、お前は私を馬鹿にしているのか…!」
「んー?してねーよ?こうすると落ち着かないか?」
「お、落ち着くわけなど…。」
「よく母ちゃんとか兄貴とかもしてくれたぜ?俺が恐い夢見て泣いてる時とかさ。」
「わ、私をお前と一緒にするな…。」

洋平は突然私を包み込むように抱き締め、優しく頭を撫でた。
まるで子供をあやすような行動が、私には理解出来ない。
それだけではない、洋平の行動は普段から理解出来ないものが多い。
突然甘えてみたり、子供の喜ぶようなことをしたり…。
理解は出来ないのに、それに流されてしまいそうになるのだ。
流されて、それが心地良いとさえ思ってしまう自分が堪らなく恥ずかしい。


「してないって。」
「そ…それならば良いが…。もう良い、離れろ…。」

額に軽く音を立てて口づけられ、私の体温は一気に上昇し始める。
このままでは明日のことも忘れて、洋平を欲しがってしまう。
洋平の熱い塊で私を突いて何もかも忘れさせて欲しいと願ってしまう…。
つい今しがた見た悪い夢も、どこかに潜む罪悪感も、何もかも…。


「ホントに大丈夫か?」
「あぁ、心配をかけた…。」

結局私はその腕に温もり以上のものを欲することなく、その晩は眠りに就いた。
もちろんそれは眠りに就いたと見せかけただけで、実際は朝までほとんど眠ることなど出来なかった。








「お、美味そうだな〜。」
「あぁ、起きたのか。」

翌朝、洋平が起きる前に私は布団を出て、台所に立っていた。
それから程なくして洋平が匂いに釣られてやって来て、玄関まで新聞を取りに行った。
晩のことを謝ろうかどうか悩んでいたが、洋平が気にしていない様子だったのでやめた。
何も触れて来なかったし、こちらから触れて何かが起きてしまうのはあまり好ましくないと思ったからだ。


「いただきまーす!」
「あぁ…。」

数十分後、出来上がった食事を座卓へ運ぶと、洋平は目を輝かせていた。
その食事に拝むように手を合わせ、次から次へと口へ運ぶ。
まるで今まで何も食べていなかったかのような勢いと小動物のような動きが可笑しくて、吹き出しそうになってしまった。

「うわーこの玉子焼き最高!味噌汁も美味いなー。」
「……??別に何時もと変わらぬぞ…?」

この日の朝食は本当に何時もと変わらない、ごく平凡な物だった。
豪華でもなければそこまで貧相というわけでもない、一般家庭に並ぶようなありふれた朝食だ。


「いつもと変わらないのがいいんだろー?なんかさ、いい嫁さんもらって俺幸せ〜って感じ?」
「ば、馬鹿者…っ、私は嫁ではない…!」
「そりゃわかってるけどさ。いいじゃん、浸っても。」
「あ、朝から馬鹿なことを…。」

何が嫁だ…。
私は何処をどう見ても女子ではないのだぞ。
それに私はこの世に存在しないはずの者で、喩え女子だとしても結婚することなど出来ぬのだ。
それを抜け抜けと言われてしまうと、どう返して良いのかわからなくなってしまうではないか…。


「ご馳走様!あー美味かったー…。」
「お前は急いで食べ過ぎだぞ…?もう少し良く噛んでだな…。」
「ほら、それ。」
「何だ…?」
「なんか良く出来た奥さんみたいじゃん?」
「ばっ、馬鹿者…っ!!嫁は止めろと言っている…!!」
「嫁じゃないって。奥さん。」
「へ、屁理屈を言うな…。」

私はこの人間と出会って、改めて気付かされたことがある。
素直になると言うことはとても難しいということだ。
このように何の曲がりもなくぶつけられると、逆に自分は曲がってしまうのだ。
それが真っ直ぐになれば洋平も喜ぶのかもしれない。
しかし私は未だにそれが出来ずにいる。


「さてと。んじゃあ行く準備でもするかな。」
「………。」

それを洋平は知っていて、わざとぶつけて来ることもある。
満面の笑みの裏側にはそんな思惑があって、時々悔しくなるのだ。
しかし私はそんな思惑さえも心地良くなってしまっていた。
素直にはなれなくても私のことは洋平がわかってくれている、そう信じていたのだ。
それが幸せで、この幸せにずっと溺れていたい…そう願って止まない。
恥ずかしくて悔しいことををされても、その真っ直ぐな笑顔を失いたくないと思う。


「じゃあな、行って来ます。」
「あぁ…。」
「ん。」
「な、何だ…?」
「何って…いつものやつ。忘れるなよー。」
「出来れば忘れたいのだがな…。」

玄関口で私に向かって頬を突き出す洋平は、本当に子供のようだ。
無邪気で我儘で、甘えたがりで、困った大きな子供だ。


「んなこと言うなよ、な?」
「わ、わかっている…。」
「へへっ、これで今日も頑張れるぜ。じゃあな銀華っ!」
「まったく……。」

私が渋々その頬に唇で触れると、洋平は途端に機嫌が良くなって足取りも軽くなった。
明け出した空の下へ飛び出して、これから洋平は仕事へと向かう。
私は少しの安堵感と寂しさと共に扉を閉め、浅く溜め息を吐いた。


「はぁ……。」

あの夢のことは忘れてしまおう。
今が幸せなら良いではないか…。
過去のことなど、洋平は気にしてはいないのだから。
話さなくて良いことは自ら話すことはない。
要らぬことには触れない方が良いのだ。

私は改めてこの恋だけを見つめ、この恋だけを貫く決意をし、汚れ物を洗おうと再び台所へ立った。







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