「MY LOVELY CAT」-1
僕が今住んでいるマンションに越して来てから、もうすぐ三ヶ月が経とうとしていた。
初めは僕のお父さんが好きになった人の子供である志摩がどんな奴なのか見てみたくて、このマンションに乗り込んだ。
そこで本当は血の繋がりなんかないのに志摩を自分の弟だと言ってはいびりまくって、嘘がバレた途端に立ち去った。
そして家に帰ってからすぐにお父さんに頼んで、その志摩と恋人の隼人が住む部屋の隣の部屋を借りることにした。
大学に入る前に一人暮らしをしておきたい、今から社会勉強をしておきたいから…なんて適当な理由でも作れば大人はまんまと信じてくれる。
それに「また来てね」なんて言っていた志摩の驚く顔も見てみたかったし、隼人が悔しがる顔も見てみたかった。
まさか僕が隣に引っ越して来るなんて思ってもいなかったみたいで、その時の二人の顔はちょっと面白かった。
その後もまた邪魔されると思って二人してビクビクしているのが見え見えで、僕はいつも陰で笑っていた。
「お待たせー!今日はカレーだよー、ひき肉と茄子のカレーなの。」
こんな風に今でも二人の住む部屋に出入りしているのは、その時の癖が続いているせいだ。
別に志摩のご飯が大好きだとか、そういうわけではない。
隼人も文句は言わないし、志摩なんか喜んでいるぐらいだ。
なんとなく三人で食べるのが日課になってしまっていただけのことだ。
「にゃう〜。」
「あっ、虎太郎はダメなの!こっち、これだよ?」
志摩の家には猫が一匹いる。
名前は虎太郎、その名前の通りトラの模様の猫だ。
隼人が志摩のためにどこからかもらって来た猫で、来た時にはもう成長した立派な大人の猫だった。
「にゃ〜…。」
「あぁっ!!こらっ!ダメだって言われたでしょ!!」
「にゅ〜ん…?」
「そ、そんな顔したってあげないからねっ!もうっ、志摩っ!なんとかしてよこの猫!!」
その猫を二日間だけ預かったのは、ついこの間のことだった。
志摩と隼人が出掛けるからと、僕に虎太郎の面倒を頼んで来たのだ。
始めは断ろうと思っていた僕だったけれど、志摩が他に頼める人がいないのを知っていたから仕方なく預かった。
僕と虎太郎の相性が悪いのは前からで、その時も部屋をめちゃくちゃにされて喧嘩になったりした。
「ご、ごめんね志季っ!」
「にゃー。」
「志摩、俺が台所に連れてくから。」
「にゃうー…。」
だけど相性が悪いのは僕だけで、志摩や隼人に対しては物凄くいい子だ。
志摩が何かを教えればちゃんとするし、隼人が怒ったりすればしゅんとしている。
無理矢理抱えて台所に持って行かれそうになっても、嫌がる素振りも見せない。
なのに僕だけには態度が違う。
それは僕が志摩をいじめていたのを見ていたせいなのか知らないけれど、よく突っ掛かって来るんだ。
突然飛び込んで来て顔を引っ掛かれたことだってある。
「ごめんね志季ー。」
「もうっ、ちゃんと躾してよっ。」
「う、うん…。」
「飼い主の責任なんだからねっ、そういうのは。」
僕は出されたカレーを口に運びながら、志摩にネチネチと文句を言った。
だってちゃんと言わなければいつまで経ってもあの猫は僕を敵だと思っているだろうから。
僕だっていちいち引っ掛かれたりするのは堪ったもんじゃない。
「でも虎太郎ってば志季のことが大好きなんだねー。」
「…ぶっ……!!げほっ、ごほごほっ!!」
「し、志季っ!どうしたのっ?!カレーが飛んだよっ!!」
「な、な、何言ってんの…っ!」
「え…?何って…?虎太郎は志季を好きなんだなーと思って…。」
「そんなことあるわけないでしょ!!僕は嫌われてんの!!そ…それに猫が好きとか思うわけないでしょ?!」
僕は志摩の言葉に思わず食べていたカレーを吹き出してしまった。
いきなり何を言うかと思えば下らない。
猫が好きって?そんな感情があるわけがないのに。
僕のことなんか、僕の考えていることだってわかるわけがないのに?
志摩が虎太郎を可愛がっているのはわかるけど、限度ってものがある。
「あ…あの、別に深い意味は…。ただ虎太郎は志季に懐いてるのかと思って…。」
「そんなわけないでしょ…いっつも引っ掛かれたり悪戯されてんのに…。」
僕はティッシュで口元を拭いながら、台所の方でエサを食べている虎太郎を見た。
バカみたいに大きな口を開けてエサに夢中になっている虎太郎は、こちらを見向きもしない。
だいたい人間の言葉だってまともにわかっているわけがないんだから。
本当にわかっているならちゃんと僕の言うことも聞くはずなんだ。
「そうかなぁ…。」
「そうだよ、隼人だってそう思うでしょ?あの猫は僕を嫌いなの!」
「え…?あ…、あぁ…。」
ほら見なよって言うんだ。
飼い主である隼人だってそう言ってるのに。
出会った時から志摩は変だと思っていたけれど、それは今でも変わらない。
僕と一つしか歳が違わないのに言うこともすることも幼稚園児みたいで、僕に比べたら全然子供だ。
「あっ、隼人ー、福神漬けいる?あのね、赤いのと茶色いのがあるのー。」
「じゃあ茶色い方…。」
そんな志摩を好きだと言って、自分の籍にまで入れた隼人の気持ちがわからない。
いくら志摩が好きだからって、可愛いからって、男同士なのに…。
別に軽蔑をしているわけじゃない。
ただ僕は、目の前にある物しか信じないだけだ。
愛だとか恋だとか、見えない物をどうやって信じればいいの?
どうやって永遠だなんて思えるの?
その証拠に、僕のお母さんだって僕を置いて出て行ったんだ。
お父さんとお母さんが別れるなんて思っていなかったのに、恋愛なんて、人の心なんていつどうなるのかはわからない。
だから僕は、今目で見える物だけしか信じないというだけだ。
「ねぇ、このカレーちょっと持って帰っていい?」
「え?いいけど…。じゃあ鍋に移してあげるね。」
志摩のカレーは正直言って美味しかった。
特別だとか物凄くとかいうわけではなくて、「普通に」美味しいという意味でだ。
だけどなんとなく僕はもう一度食べたくなって、志摩に持ち帰りをお願いしてしまった。
「何笑ってんの…?」
「え…?だってー。」
小さな鍋にお玉でカレーを移し変える志摩がニヤニヤ笑っていて、僕は訝しげに訪ねる。
だいたいこういう時の志摩っていうのは調子に乗っている時だ。
「何?早くしてよ。」
「カレー気に入ってもらえてよかったなーって。志季に褒められたの嬉しくってーえへへ。」
「だ…誰がそんなこと言ったのっ?!褒めてなんかないよ!ただ夜中に勉強しててお腹が空くだけだよっ!それしかないから食べてあげるって言ってんの!!」
「ひゃっ!ご、ごめんなさいっ!は、早くしますっ!」
ほらやっぱりそうだ。
勝手に自分の都合のいいように考えて、ヘラヘラ笑って。
何が楽しいんだろう、何が嬉しいんだろう。
僕にはそういう気持ちがわからない。
多分一生わかりそうにもない…。
「あっ、志季!」
「何?」
夕ご飯を済ませて自分の部屋に帰ろうとした僕を、志摩が引き止める。
ヒラヒラのエプロンなんかしちゃって、まるでどこかの新妻みたい。
隼人も何も言わないところを見ると、可愛いとでも思っているんだろうか。
こういうのをバカップルって言うんだ…。
「これ!あのね、猫神様からもらったの、ドーナツ!」
「誰それ…?ふぅん…ドーナツね。もらってあげてもいいよ。」
「えへへ、お勉強頑張ってね!」
「志摩に言われなくてもちゃんと頑張るから余計な心配しなくていいよ。」
志摩はニコニコと笑って僕に手を振りながら見送った。
僕はカレーの匂いと一緒に甘い砂糖の匂いに包まれながら、自分の部屋に向かった。
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