「DARLING」-19
それから数日間、俺は抜け殻のようだった。
傍には隼人がいて、幸せだと言うともちろん幸せだったけれど、何だか力が入らなかった。
志季がいた間はあまりにも気を張っていたせいだろう。
そう言えば飼っていた猫のシマにゃんがいなくなった時もこうだった。
そんなことを志季に言ったら「僕は猫じゃない」なんて文句を言われそうだけど…。
「志摩…、志摩…?」
「…ほぇ?」
「その…ただいま…。」
「へ……?わあぁ!!は、隼人帰って来てたの?!」
キッチンでぼうっとしていた俺の顔を、隼人が心配そうに覗き込んでいた。
隼人が帰って来たことにさえ気が付かないなんて…。
いつもだったら玄関のドアが開いただけで飛んで行くのに。
それで抱き合って、おかえりなさいのちゅーもするのに…俺は何をやっているんだろう。
「大丈夫か?」
「あっ、あの!おかえりなさい!えへへ、隼人おかえりー。」
「いや…それ…、それ焦げてるんだけど…。」
「わあぁっ!!エビー!エビがぁー!どうしよ…あ、熱いー!!」
抱き付こうとして、隼人の指差した先を見ると、フライパンからもくもく煙が上がっていた。
張り切って作っていたオレンジ色のエビのチリソースが、ところどころ黒くなってしまった。
おまけに火を止めようとしてフライパンに触ってしまうしで、散々だ。
「大丈夫かっ?早く水で…。」
「は、はい…、ごめんなさ…っ。」
隼人が帰って来てくれてよかった。
このまま気付かなかったら危うく火事にだってなりかねなかった。
もっとしっかりしないといけない。
ただでさえ俺はどこか抜けているんだから。
「大丈夫か?」
「う、うん…。ごめんな……ひゃっ!」
「痛いか?」
「は、隼人…っ、ん……!」
勢いよく流れる水で冷やした指を、隼人がそのまま口の中に持って行ってしまった。
前に包丁で怪我をした時もそうだった。
「大丈夫か」なんて言って、この方が大丈夫じゃないのに…。
そんな風に音までたてて舐められたら、変になっちゃいそう…。
「やっぱり寂しいのか?あいつがいなくなって…。」
「え…?あの…?」
「もしかして好きになったとか…。」
「えぇっ!ち、違います!!そんなこと絶対ない!!」
俺はそんなに寂しがっていたんだろうか。
志季がいなくなって、そんなに…。
隼人にこんなことまで言わせてしまうなんて。
俺が好きなのは隼人だけなのに、疑われてしまった。
でも疑われたのは絶対に俺が悪いっていうことはわかっている。
「…本当?」
「ほ、ホントですっ!ホントだよ隼人ー、ごめんなさい、ぼうっとしてごめんなさい!」
「志摩、本当だよな…?」
「は、はい…っ!隼人ぉ…っ、ふぁ…っ。」
どうしよう…隼人が怒っている。
俺を鋭い目で見つめて、指に跡が付いてしまいそうなほどきつく吸って。
隼人が嫉妬だなんて嘘みたいだ…。
嬉しいけれど、それ以上されたら俺は本当に変になってしまう。
腰の辺りから崩れていきそうなぐらい、指だけで感じてしまっているんだ…。
「…うにゃ〜ぉ。」
もうダメだと思った瞬間、俺達のいるキッチンの近くから鳴き声がした。
俺でも隼人でもない、人間でもない鳴き声。
聞いたことがないけれど、懐かしいような鳴き声。
「あー!猫だー!!隼人これどうしたの?!」
「にゃう〜。」
床に置かれたペット用のバッグから、大きな目が覗いていた。
すぐに駆け寄ってその蓋を開けると、初めて見る猫が鳴いていたのだ。
シマんにゃんとはまた違う模様で、シマにゃんほど小さくもない猫。
「あぁ…、会社の人に頼んでもらって来たんだ。」
「えーっ、カッコいいー!カッコいいねこの猫!!」
シマにゃんとは全体的に見た感じも違う。
凛々しくて、大きな目がキリっとしていて、なんだかカッコいい。
俺はその猫をバッグから出してやると、ぎゅっと抱き締めた。
「名前は…。」
「うんと、トラにゃん!ねー?トラにゃんー?」
「そのまんまだな…。」
「あ…そ、そっかぁ…。」
見た目通りはやっぱりセンスがないのかもしれない。
せっかく俺のところに来てくれたんだから、今度はこの猫に似合うカッコいい名前を付けてあげよう。
「ごめん、そいつもう名前あるんだ…。」
「え?そうなの?」
「飼い猫だったから…虎太郎って言うんだけど…。なんか渋いおっさんみたいだよな…。」
「虎太郎……カ、カッコいい…!!えへへ、虎太郎〜?虎太郎〜♪」
「にゃあぁ〜…。」
俺は虎太郎を抱き締めて、頬を摺り寄せた。
飼い猫だったせいか、人間には慣れているみたいだ。
虎太郎の方からも摺り寄って来てくれて、甘えた声を上げている。
「志摩…、その…、元気出たか…?」
「え…?あの、もしかして…。」
「そいつがいたら少しは寂しくないよな…?」
「は、隼人ー…!」
俺は自分のことばっかりだったのに、隼人はこんなにも俺のことを考えてくれていた。
人に頼むなんて、隼人は嫌いなはずなのに。
人から何かをもらうなんて、苦手なはずなのに。
俺が寂しがっているのをちゃんと見ていたんだ。
どうしよう、俺…やっぱり幸せ者だ…。
こんなに優しい隼人に好きになってもらって、世界一の幸せ者だよ…。
「隼人…あの、す、好きです…。」
「なんだよ突然…。」
「俺すっごく隼人が好き…大好き…!隼人、好きー…。」
「ぷ…変な奴だな…。」
だって何て言っていいのかわからなかったんだ。
とにかく俺は隼人と一緒にいれて幸せだってことを言いたくて。
この気持ちをどうしても伝えたくて。
隼人は吹き出していたけれど、すぐに俺を抱き締めてくれた。
俺は虎太郎をそっと床に下ろすと、隼人に応えるようにしてしがみ付いた。
ピンポーン───…。
このままどうなってもいい。
いつもなら恥ずかしいことも、今ならなんでも受け入れられる気がした。
その前触れとも言える甘くて深いキスを繰り返していると、突然インターフォンが鳴った。
「あの、お客さんが…んっ、ん…っ。」
「いい。どうせ新聞か何か…。」
「あのっ、俺またお取り寄せスイーツを…!ごめんなさいっ!」
「志摩は食べることばっかりだな…。」
呆れられてしまった…。
確かに俺は食べることばっかりだ。
こういうのをタイミングが悪いって言うのかもしれない。
もう少し自粛しなければ、いつか隼人に嫌われてしまう…。
「志摩…、お客さん…。」
「え?俺に?誰?シロ?」
「いや…、お客さんって言うか…。」
「…隼人??」
一度玄関に向かって戻って来た隼人が下を向いて深い溜め息を吐いている。
俺にお客さんだなんて、シロか猫神様ぐらいなのに。
宅急便とも言わなかったし、誰なんだろう…?
「はいっ、志摩で………し、志季っ?!」
「何そんなに驚いてんの。」
「し、志季…、ど、どどどうしたの?」
「遊びに来いって言ったの志摩でしょ?」
そこには数日前別れたばかりの志季が立っていた。
俺の後ろでは早くも隼人が頭を抱えている。
遊びに来るにしては遅い時間だし、もしかしてまたここに置いてなんて言うんじゃ…。
寂しいとは思っていたけれど、また一緒に住むとなると別問題だった。
だって隼人と二人きりになれなくなってしまうから…。
「今日から隣に住むことになったから。よろしくね。」
「ええぇっ?!う、嘘ぉ?!」
「嘘なわけないでしょ?隣空いててよかったー。あ、後でちゃんと挨拶しに行くね、じゃあ急ぐから。」
「あっ、志季…!」
ドアがバタンと閉まった後、暫く俺も隼人も言葉が出なかった。
あんなに平然と引っ越して来たなんて言われて、返す言葉もなかった。
まさか遊びに来るどころか引っ越して来てしまうなんて…。
「あの…、び、びっくりしちゃったね…。」
「あぁ…。」
「は、隼人知らなかったの…?」
「管理人なんて名前だけだからな…。」
まだ落ち着いてはいなかったけれど、先に口を開いたのは俺の方だった。
隼人は本当に知らなかったみたいで、珍しくショックを受けた顔をしている。
本当に、志季には驚かされてばかりだ。
「じゃ…、邪魔とかされたりするのかな…。」
これから先どんな生活になるのか、想像もつかない。
でも志季のことだから、また意地悪をしてきそうな予感がするんだ。
俺と隼人が恋人同士だということはもう承知なわけだから、そのことでからかって来たりするかもしれない。
寂しいと思っていたのに本当に来られるとそんな風に思ってしまうなんて、本当に勝手だけれど。
「志摩…。」
「え…?んっ、んー…っ!」
考え込んでいる俺を隼人が素早く抱き寄せる。
さっきまで重なっていた唇がまた重なって、熱いキスを交わす。
邪魔なんかさせない。
ぼそりと呟いた隼人の言葉が嬉しくて、俺は返事の代わりに何度も隼人の頬にキスをした。
「俺だけ見てろ…。」
前だけ見ていればいい。
過去なんか振り返らずに、よそ見なんかしなくていい。
ただ真っ直ぐに見ていればいいんだ。
隼人と出会った時の言葉が俺の頭の中で蘇る。
俺が今見るべきものは隼人との未来で、今大事なものは隼人との恋だけ。
たとえ周りが見えなくなって転んでしまっても、俺の隣には隼人がいて手を差し伸べてくれる。
不安になった時は魔法の呪文のような甘くて優しい言葉をくれる。
だから俺は安心して前だけ…、隼人のことだけ見ることが出来るんだ。
「はいっ!」
いつだって大好きな人が傍にいてくれるから。
END.
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