「trouble travel」-1




その日、俺はいつものように銀華に挨拶をして家を出た。
仕入れがある日は夜明け前には勤務先の花屋に行かなければならない。
その後店にある車でその日の仕入れ当番と、いる時は手伝いと、だいたい二人か三人で行く。
そういう日は忙しくなければ、夕方には帰らせてもらえることが多かった。
だけど副店長というのを任されてから、名ばかりだけでなく残業も増えた。
それでも銀華は文句の一つも言わずに俺を待っていてくれているけれど。


「藤代くん、お昼行って来なよ。」
「あ、はい、すいませんじゃあお先に…。」

午前中は、午後からある結婚式のアレンジに追われて、結構な忙しさだった。
それも終わって一息吐いたところで、遅い昼休みを取ることにした。
裏の作業場の隣にある事務所で、自分のロッカーを開ける。
ビニール製のよく行く服屋のショップ袋を開けると、薄いブルーの布の包み。
銀華が毎朝俺よりも早く起きて作ってくれている弁当だ。
会えない仕事中の、俺の一番の楽しみだったりする。
今日はどんなおかずが入っているのかとか、これは昨日冷蔵庫に作り置きしていた物だとか、色んなことを想像するのが楽しいのだ。
小さめの会議机にそれをそっと置いて、パイプ椅子に腰掛ける。
包みを解くと、二重になった弁当箱が顔を出す。
その蓋を開けると、食欲を掻き立てるいい匂いがした。


「うわー凄いですねー。」
「わっ!び、びっくりしたー…。理香ちゃん、びっくりさせんなよ。」

突然後ろから、店のバイトの子に声を掛けられた。
理香ちゃんは俺よりも二つ三つ若い、高校卒業したての女の子だ。
今時な明るい子で、高校は園芸科に通っていて、花屋で働くのが夢だったらしい。
別に悪いことをしているわけでもないのに、俺は咄嗟に蓋を手にして隠そうとしてしまった。


「藤代さんが同棲してるって本当だったんですねぇ。」
「い、いや…あのそれは…。」
「隠さなくていいですよぉ、いいじゃないですかーお料理の上手な彼女なんて自慢出来ますよ?」
「そ、そうかな…。」

同棲…同棲は確かに本当のことだ。
だけど彼女…、確かに恋人だけど銀華は男で…。
時々女の子みたいに…俺に言わせれば女の子以上に可愛い時もあるけど、そんなことを言ったら怒るし。
でもそこがまた可愛いと言えば可愛いんだけど。


「今彼女のこと考えてませんでしたぁ?」
「えっ、そ、そんなこと…。」
「鼻の下、伸びてましたよー?ふふっ。」
「う、嘘っ、マジで?うわー…。」

これはいわゆる、他人に対しての惚気というやつだろうか。
嘘ですよ、とからかいながら理香ちゃんが行ってしまった後で、なんとなく鏡を覗いてしまった。
兄相手だけじゃなくて、自分と銀華の関係を知らない人間にまでどうやら俺は惚気てしまっているらしい。
まずいな…、これは本気で溺れてしまってる…。
溺れるのは仕方ないことだ、問題はそれを外に出してしまっていることだ。
気を引き締めなければ、仕事でミスもやりかねないと思った。


「ん…?」

隣の椅子に置いた鞄の中で、ブルブルと何かが震えていた。
俺はいつも、一応仕事が終わるまで携帯電話の着信をバイブレーションにしてある。
仕事が終わって帰り支度をする時に、それを解除するのだ。
そんなに頻繁にメールをするような友達もいないし、するとしても銀華で、それも毎日何度もあるような回数でもない。
ましてや俺が仕事中に電話を掛けて来ることなんかはほとんどない。
あいつなりの気遣いと、少しの照れのせいだ。
それが、今日は何かが違った。
メールだと思った着信が、案外と長く続いたもんだから、慌てて電話を取り出した。
ディスプレイには、その滅多に電話を掛けて来ない銀華の名前が出ていた。


「もしもし?どうした?」
『すまない…、仕事中に…。』
「あ、もしかして何回も電話した?ごめんごめん、今日忙しくてさ…。」
『シロと志摩が来ているのだが…。』
「??うん、どうした?なんかあったのか?」
『その、頼まれてしまってな…。』

電話の向こうの銀華は、何かにうろたえているようだった。
普段冷静な銀華がそんな声を出すのは珍しい。
それでも声が聞けて嬉しいなんて、俺は不謹慎なことを考えてしまったけれど。
しかしシロと志摩が来るのはよくあることだった。
俺が帰った時にはもういない時もあるし、夕方に帰るといたりする時もある。
何度もあることだったのに、何か問題でも起きたのだろうか。


「頼まれた?何を?」
『その…、お前の兄と志摩の相手が来て…。』
「うん?」
『シロと志摩を預かってくれと言うのだ。』
「え?!何それどういうことだ?」
『二人は用事があって泊まりになるそうでな…。』

それは、俺が忙しく働いている午前中のことだった。
銀華が家に一人でいると、いつものようにシロと志摩が訪ねて来たらしい。
その後ろにはそれぞれの恋人、つまりは俺の兄とその友達の水島という奴だ。
どうやら二人が元いたバイト先の友人が結婚するらしく、それがそいつの実家で挙げることになったものだから、泊まりがけでないと無理ということだった。
だけど子供じゃあるまいし、一人でも、それこそシロと志摩で一緒に留守番していればいい話なのに…。
どれだけ甘やかしてどれだけ子供扱いしてどれだけ心配性なんだろうな、あの二人は。
俺としては別に家に泊まることは構わないことだったけれど、 銀華は俺に断りもなく承諾してしまったことを気に病んで電話して来たらしい。
それもどうせ兄が強引に頼んで承諾させたのだろうと想像もつく。


「うん、いいよ。」
『よいのか…?』
「そんなこと気にすんなって。あ、俺も出来るだけ早く帰るようにするよ。保証はできないけどな。」
『すまない…洋平…。』
「いいっていいって。それよりさー。」
『どうしたのだ?』
「電話、嬉しかった。声聞けたし。」
『ば、馬鹿なことを…。わ、私がどれだけ心配をしたのだと…。』

電話の向こうの銀華がすぐに想像出来る。
きっと今頃シロや志摩に聞かれないように手で口元を覆って、真っ赤になっているに違いない。
そんな想像上だけど、銀華の顔がもっと見たくなってしまった。


「銀華…、その、好きだから。」
『お、お前は何を言っているのだっ。仕事をしないかっ。』
「ははっ、今昼休みだって。まぁいいや、じゃ後でな。」
『まったくお前は…。』

仕事しろ、なんて普段は言わないくせに。
照れを誤魔化しているのがバレバレだ。
本当に、そういうところが誰よりも可愛いんだよな…。


「聞ーいちゃった♪ラブラブじゃないですかー!」
「うわっ!!聞いてたのか?」
「ふふ、いいなぁ、藤代さんの彼女。羨ましい〜。」
「だ、誰にも言わないでくれよー?頼むよもう…。」

再び戻って来た理香ちゃんに、またしてもからかわれてしまった。
ラブラブか…、銀華もそう思ってくれていたら俺はもっと幸せだけど。
開けっ放しだった弁当にやっと箸を付けて、ゆっくりと銀華の優しさを味わった。








「…え?残業出来ない?いや、今日はもう大丈夫だけど…。」
「すみません…。」

あの後結局、俺まで心配になってしまったのだった。
シロや志摩は銀華を怒らせるようなことはしていないか、上手くやっているだろうか。
兄のことなんか責められないぐらい、俺もシロと志摩を子供扱いしているようだ。


「いやいや、元々残業の必要ないし。」
「それならいいですけど…。」
「珍しいね、藤代くんがそんなこと言うなんて。何か用事でも出来たの?早退でもいいよ。」
「いや!大したことはないんです!ただその…し、親戚の…こ、子供を預かることになって…。」

この理由は苦しいだろうか。
嘘は嫌いだけど、まさか兄とその友達の恋人だなんて言うわけにはいかない。
恋人を預かるなんて普通は有り得ないし、だからと言ってその恋人が16、7の男だ、なんてもっと言えるはずがない。
嘘も方便、世の中それも時には必要だ。


「えっ、そうなの?じゃあ早く帰った方がいいよ。」
「い、いやでもあの…。」
「だって藤代くんを待ってるんじゃないの?いいよいいよ、早退で。もう上がっていいからね。」
「あの俺は…、大丈夫なんですけ……、あぁ……。」

嘘も上手く考えなければならないと、俺はこの時深く反省した。

シロと志摩で早退とは…、何をやっているんだか。
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、俺は帰り支度を始めた。






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