「A distress of a daddy」-1




「隼人、お願いがあります!」

土曜日の夜、志摩が突然俺の目の前で手をついて床に顔を伏せた。
俺は一瞬、何が起きたのかわけがわからなくて戸惑ってしまった。
だけどよく考えたら志摩の行動はいつも驚くことばかりだ。
ここで慌てても仕方がないと、小さな溜め息を一つ吐いて黙って続きを見守った。


「あの…、明日、夕方まで帰って来ないで欲しいの…。」
「…え?」

驚きのあまり、危うく心臓が止まるかと思った。
人の言葉というものは不思議なもので、言い方一つで良いようにも悪いようにもなってしまう。
俺は追い出されるようなことをしたのかと思ってしまった。


「えっと、ど、どうしてもしたいことがあって…、夕方になるまで家貸して欲しいっていうか…。」
「あぁ、そういうことか…。」

とは言ったものの、納得したのは言葉の意味だけで、志摩の目的はわからない。
志摩には友達と呼べるような奴はほとんどいない。
唯一の仲の良い友達のシロを呼ぶなら俺に隠す必要もない。
志摩が俺に隠し事や秘密、ましてや浮気を堂々と言うわけも、出来るわけもない。
志摩は悪いことも出来ない…というかすぐにばれるから、悪さという類ではないとは思う。


「それでね、帰って来る時はお仕事の時の服で帰って来て欲しいの。」
「…は?なんで……?」
「あの、ワイシャツを着て帰って来て欲しいっていうか…。」
「え…、やだよ…。休みの日にそんな格好したくない…。」

志摩の意味不明な発言は続く。
お仕事の時の服、つまりはスーツで帰って来いと言うのだ。
普段からあんな堅苦しい格好は好きじゃないのに、どうして休日にそんなこと…。
しかも帰って来る時ということは、わざわざ俺に着替えを持って行けということだろうか。


「お願い隼人!襟のついた普通の服でもいいから!」
「えぇ…?やだって言ってるだろ…。」
「お願い!一生のお願いです!!」
「お前この間もそんなこと言わなかったか…?」

志摩はしつこく言い寄って来て、終まいには俺の身体にしがみ付いて来る。
何かしてとか何かが欲しい時、志摩は一生のお願いというものをよく使う。
そして俺が前にも聞いたとか何度目だと責めると、その後の態度も決まっている。


「う…、それは…。」

そうやって落ち込んでしゅんとなって俯いて。
頬を少しだけ膨らませるのは俺に対する僅かな反抗なのか。
大きくて黒い瞳から、今にも涙を零しそうになりながらもごもご言って。
俺は意地悪で素直になれない奴だから、その顔が見たくてわざとこう言ってしまうんだ。
その俺の意図に気付かない志摩がまた可愛くて。


「あの、ごめんなさい…。」
「わかったよ…。」
「え?わかったってことはいいってこと?」
「夕方まで出掛ければいいんだろ?ただしスーツは勘弁してくれ…。」

謝罪の台詞が出かけたら、それは降参の時だ。
いくら可愛くても、本当に泣かれたり嫌われたりしたら困る。
結局は俺は、志摩には敵わないということだ。
やっぱりそれも志摩本人はまったく気付いていないみたいだけれど。


「えへへーありがとうございます!隼人好きー。」
「あんまりくっつくなって…。」

たちまち笑顔になった志摩が、より強くぎゅっとしがみ付いて来る。
薄着になったこの季節は、触れてくる柔らかい肌と俺よりも少し高い体温をいつもより敏感に感じさせてしまう。
こうなったら最後、俺はどうにもならなくなるのだ。
志摩以外は考えられなくて、ここからどうやってセックスへ持ち込むか、そんなことばかりだ。
志摩はどう思っているかわからないけれど、俺も人並みに性欲はある。
むしろ普段そんなことを表面に出さないから、脳内を占める率は人並み以上かもしれない。


「隼人ー隼人ー。」
「まったくもう…。」

しっかりと膝の上に乗って来た志摩を、半分目を逸らしながら抱き締め返す。
頬に触れてくる志摩の唇を引き寄せたら、それは合図みたいなものだった。
腕の中でおとなしくなった志摩を、めちゃくちゃにしてしまう前触れ。
ゆっくりと自分から倒れ込むと、その夜は無我夢中で志摩だけを感じるのだ。








「じゃあ行って来ます。」

翌日、遅い朝を迎えて、俺はすぐに出掛ける準備をした。
玄関で靴を履いていると志摩がぱたぱたと走って寄って来る。
昨夜の行為のせいで時々よろけてしまうのに、少しだけ罪悪感を感じた。


「えへへー隼人、行ってらっしゃい。」
「うん…、こら志摩。」
「え?なぁに?どうしたの?」
「どうしたのってな…。」

出掛けろと言ったのは自分のくせに、俺が嫌だけど志摩のために出掛けようとしているのに…。
またしてもひっついて離れない志摩に困ってしまった。
そんなことをされたら、出掛けたくなくなるだろ…。


「まだ…、足りないのか?」
「ほえ…?」

足りないのは、俺だ。
いつも志摩と一緒にいたくて、志摩が欲しくて堪らない。
その身体を何度抱いても、何度繋がっても、飽きることなんて一生ないと思うぐらい。
頬へのキスを止めない志摩の腕を引っ張って、強く抱き締める。


「昨日あんなにしたのに…。」
「や!!ああああの…!!そういうわけじゃ…!!あの、隼人違うのです…!!」

ぽかんと口を開けて間抜けな表情を浮かべていた志摩が、真っ赤になって俺の腕の中から勢いよく飛び出す。
耳まで真っ赤になって、本当に単純で素直なんだから。
そういうバカ正直なところも、志摩の好きなところだ。


「行って来ます。」

少し離れたところで恥ずかしそうにうずくまっている志摩の頬にちゅっとキスをして、俺は名残り惜しくも玄関を出た。
ドアを閉める瞬間に、行ってらっしゃいという志摩の小さな声が聞こえた気がした。


普段休日に出掛けることなんてほとんどないから、行き先には困った。
だっていつも家にいて、志摩と一緒に過ごしていたんだ。
出掛けるにしたって、隣にはいつも志摩がくっついている。
俺は迷惑そうな顔をしながら、内心は子供みたいにはしゃぎたいぐらい喜んで。
なんだかんだ言って、くっついていたいのも甘ったれなのも俺だ。

藤代さんとシロのところへ行こうと思って念のため電話を入れてみたけれど、繋がらなかった。
シロはケーキ屋でアルバイト、それに合わせて藤代さんも仕事中だろう。
藤代さんの弟、もしくはその恋人の銀華さんなら家にいるかもしれないけれど、そこまで親しい仲でもない。
その他に友達がいないわけでもないけれど、志摩のことを知っている奴はいない。
どうしてぶらぶらしているのかと聞かれたら、どう誤魔化していいか困る。
余計なことは言わない、面倒なことは自分から起こさない。
それが同性同士で付き合っていく中で、周りに対する接し方だと俺は思っている。
仕方なく街中をぶらぶら歩いて、途中でカフェに入ったりして時間を潰した。

これが困ったことに、洋服屋を見ると志摩に似合う服を探してしまう。
ペットショップを見れば志摩に猫を買ってやろうとか。
デパートの地下を歩けば志摩はきっと試食しまくるだろうと想像したり。
カフェに入ればここのパフェは志摩が好きそうだ、なんて思ったり。
とにかく、何もかもが志摩へと繋がっている。
大きなウィンドウに写った自分を見て、隣に志摩を探してしまった時には、かなりの重症だと自分で自分に嫌気が差したぐらいだ。

昼ご飯はファミレスで済ませて、午後から同じルートをまた巡った。
二回目は別のカフェに入って、何年か振りに煙草を口にしてみた。
慣れない煙に咽てしまって、すぐに火を消した。
それぐらいしないと、時間が長くて長くて仕方がなかったから。
そしてようやく夕方になって、ルートも三度目になった。
店先には家族連れや恋人同士が沢山歩いていて、今なら志摩がひっついて来ても邪険にしないだろうと思った。
いい歳の大人が、たったこれだけの時間離れていたから寂しいだなんて…。
落ち込みそうになっていると、明るい声が俺の耳に飛び込んで来た。







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