「ONLY」-1




あの暑い夏から、俺の生活は一転した。
誰とも一緒にご飯を食べない、誰とも一緒に寝たりしない。
誰とも深く付き合ったりしない俺が、今ではまったく逆の日常を送っている。
今朝も隣で眠っている志摩が、この家に来てから数ヶ月が過ぎた。
最初はあんなに受け入れることのできなかった他人が、
傍にいなければいけない大事な存在になってしまったのは、
その数ヶ月前の俺には想像もできなかったことだった。
しかも、突然人の家に侵入、嘘までついていたって言うのに。
全て許してしまったのは、それ以上に俺が志摩を必要とする思いが強かったからだ。


「…ん〜。」

寝言を言いながらもぞもぞと動く志摩を見て、その時のことを思い出すと思わず笑いそうになる。
嘘がバレて出て行って、戻って来た時も窓から侵入してきたんだ。
泥棒みたいに、風呂敷なんか背負って。
そんな可笑しいエピソードを、今でも鮮明に思い出せる。
それほどまでに、自分にとって志摩は、大きな存在なのだろうと思う。


「隼人ー、おはよ、おはよー!」
「…おはよう。」
「あのね、今日の朝ご飯、目玉焼きと玉子焼きどっちがいい?」
「別にどっちでも…。」

なのに、俺の態度と言ったら相変わらずこうだ。
志摩に対してデレデレするわけでなく、仕掛けてくるイチャイチャに乗るわけでなく。
志摩も俺がそういうことを好む人間ではないことがわかっているから、特に不安がることも、物凄くしつこくしてくることもない。


「じゃあ今日はレンジのだし醤油卵にしよーっと。」
「うん。」

どっちがいいとか聞いておいて、違うものにするんだもんな。
だったら聞くなよ、とも思うけど、そうやって俺に聞く、会話をすることで、
志摩なりにコミュニケーションを取ろうとしてくれているのかもしれない。
内容がどこか抜けてるというか…面白い奴だと思うけど。
家のことは全部志摩に任せてしまっている。
元々この家に執着心なんてものがなく、 食事も掃除も何もかもに対してどうでもよかったため、
家事というものがまったくできない大人になってしまっていたのだ。
志摩はその類が好きらしく、率先してやってくれている。
俺がバイトでいない間はずっと家にいるのだから、暇潰しにもなるだろう。


「…あ。隼人ー…。」
「何?どうし…。」
「お、おはようの、ちゅーです…。」
「…あぁ。」

ベッドを降りてキッチンへ向かおうとした志摩が再び俺の元へ戻って来る。
志摩の言うおはようのちゅー、も、だいぶ慣れては来たけれど…。
反則なぐらいの上目遣いと、強請っているのに恥ずかしがる矛盾した表情が、
腹が立つやら可愛いやらで、どうしていいのかわからなくなる。
本当に困ったものだと思う。


「あのね、今日一緒に帰っていい?」
「いいけど。」
「ホント?やったー!買い物行ってコンビニ行くねー。」
「わかった。」

こんな風に、出かける前に志摩から言われることもよくある。
俺のバイトが終わる時間に合わせて買い物をしてバイト先のコンビニに寄るのだ。
この時言わずに、買い物に行く前に寄って、一緒に帰ることもある。
バイト仲間で隣に住んでいる藤代さんには、ラブラブだの新婚だの、
必ずと言っていいほどからかわれるのはなんとかして欲しいところだ。


「行ってらっしゃい!はい、シマにゃんもー。」
「み〜。」
「…行って来ます。」

一緒にこの家にやって来た猫のシマを、志摩は抱き締めて俺に向ける。
その後はまた行って来ますのちゅー、だと、言う。
朝から何回キスさせる気なんだとも思うけど…。
志摩が喜んでくれるから、恥ずかしさを掻き捨てて、毎朝キスをしてやるんだ。








バイト先のコンビニまでは、そう遠くない。
歩いていける距離だから、普段は歩いて通っている。
このコンビニでバイトを始めてから、もうすぐ2年になる。
いつまでもぷらぷらした生活をしているわけにはいかないのだけれど…。
そういえば、後から言われて思い出したことだが、 志摩と初めて会ったのも、このコンビニだった。
なんだか懐かしい気持ちが湧いてくる。
あの時志摩はまだ中学生かそのぐらいで、眼鏡をかけた気の弱そうな少年だった。
だから言われるまで気付かなかったのだけれど。


「見て見て!新しいチョコでてるよー。」
「あーホントだ、イチゴ味!あたし買おうっと。」

出勤時間は8時と9時が大半だ。
今日みたいに8時の時は、近所の高校に通う学生がたくさんやって来る。
お菓子や中華まん、パンなんかがよく売れる。


「そうそうこないださぁー。体育の授業ん時ー。」
「えーなになにぃー?」

高校生…、この場合女子高生は、支払いをしながらも喋るのをやめない。
朝から元気というか二つのことをいっぺんにできて器用というか…。
自分とそんなに離れていない年齢でも、それが若さなんだろうか、などと思ってしまう。
同時に、一つの不安や疑問といった何とも表現し難い思いが浮かぶのだ。


「数学の課題やってきた?」
「もちろんだよー。」

本来なら、志摩もこんな会話をしているはずだったのではないかと。
1度きりの志摩の制服は、今この女子高生が着ているのと同じ学校のものだ。
もともと学校が嫌いでさぼってたから、そう言ってあっさり退学しなければ。
志摩は多分、今年の春で高校2年生で、こうして友達とも楽しく会話していたかもしれない。
俺はもしかして、そんな志摩の人生を狂わせてしまったのではないか…?

何度かそのことを聞いたことはある。
そんなことない、学校に行ったらからまたかわれるもん、そう志摩は答えた。
それは、志摩が女みたいな名前で、見た目も女みたいな顔と身長だからだ。
からかわれる、そのせいで眼鏡をかけていた。
自分の顔を、存在をなるべく目立たないものにするために。
それも普通にテレビや雑誌を眺めていた志摩に聞いたのだ。
ちゃんと見えているのか、眼鏡は持って来なかったのかと。
ごめんなさい、と謝りながら、あれは嘘です、と俯いた志摩を、何も言わずに抱き締めてやりたかったのだけれど。


「お兄さーん、お釣り違うよぉ?」
「…あ、すいません。」

女子高生に指摘されて、正しい釣銭を渡した。
ありがとう、と言って去って行く後ろ姿を見ていた。
これから学校へ行って、たくさんの友達と喋って、勉強をするんだろう。
放課後は、また友達とどこかへ寄り道したりして。

俺は、志摩を、幸せにしてやれているのだろうか?
志摩は俺のところに来て、後悔はしていないのだろうか?
本当は俺だけでなく、もっと友達が欲しいんじゃないか?
今の生活に、不満はないのだろうか…。
そんな思いが、このところの俺の胸の中を支配し始めていた。









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