「そらいろ-3rd period」-1





前の日の夜は、年甲斐もなくウキウキして眠れなかった。
なんとか眠りに就いたはいいけれど全然眠った気がしなくて、
朝になったらなったで会社に行きたくないなどと社会人らしからぬことまで思ってしまった。
それでも仕方なく会社に行ったはいいが、もちろん仕事なんか手につくはずがなかった。
だって今日は、俺の好きな人が帰って来る日なんだ。
出会ってからもう10年、ずっと好きだった俺の甥であり恋人でもある空が帰って来る日なのだ。

空とは5年前に別れて以来、ほとんど手紙だけだった。
空の両親、つまりは俺の姉と義兄に怪しまれないようにしなければいけなかった。
だから手紙と言っても空の方から来る方が断然多くて、だいたい俺は空の手紙20通に対して1通の割合で返事を書くだけだった。
電話をするにしても、何か用事があると偽るか、ごく久し振りだと言うために日にちを一ヶ月は開けなければいけなかった。
当然会話の中で「好きだ」とか「会いたい」なんて言うことも出来なかった。
それが最近になって、義兄の仕事の関係で家族全員で帰国することが決まった。
空とこんな関係になって義兄には申し訳ないという反面、日本へ戻って来ることに関しては感謝でいっぱいだった。
これからは会おうと思えばすぐに会える、そういう場所に空がいてくれるんだから。

「あきちゃん」

つい最近の電話でも空は相変わらずそんな呼び名で俺を呼んでいた。
帰国のことを知らせてくれた電話の向こうの空の嬉しそうな表情は、見なくてもわかるぐらいだった。
あれから空の背はどれぐらい伸びただろう。
俺と出会った頃はまだ幼稚園児で、俺の足元でちょろちょろしていた。
姉がそう呼ぶように自分のことを「くー」と呼んでいた。
それがいつの間にか「空」になり、背は日本を旅立つ時には随分大きくなっていた。
今はこちらで言うと中学3年生だ。
自分のことを「空」ではなく「僕」と言っていたし、声だってほんの少し低くなっていた。
もしかしたら背は俺よりも大きくなっているかもしれない。
出会ってから10年、空の成長は今どれだけのものになっているのだろう。
俺のことを前みたいにあきちゃんあきちゃんと言って抱き付いてきてくれるだろうか。
大きな期待と少しの不安を胸に、俺はいつもより仕事を早めに終えて帰り支度をした。

成田までは途中から急行を使えば2時間前後で着く。
俺は空達の飛行機が到着する前に一度家に戻る余裕を見ておいた。
空と会うのに仕事を持ち込みたくなかったから、堅苦しいスーツを脱いで行こうと思っていたのだ。
はじめは迎えに行くこと自体どうかと思ったけれど、運良く姉から迎えの指示が出た。
義兄は仕事の引継ぎやら何やらで2〜3日後になるからという理由で、実家までの足代わりとして俺が選ばれたのだ。
姉は人遣いも荒く、そもそも空との始まりも姉が無理矢理預けて行ったからだ。
今思えば姉には感謝しているし、迎えに来いと言われたことにさえ喜びを感じた。
なんだかすべてのことが自分に味方をしてくれているようだった。

駅から早足で自宅マンションへ向かい、エントランスを通り抜けると鼻歌混じりに階段を昇る。
今年も暑かった夏が終わり、秋になってだいぶ日が落ちるのも早くなった。
この日も見上げた空の西の方は既に深いオレンジ色に染まり始めていた。


「あきちゃん!」

目を細めながら高い空を見上げていると、俺の視界に何かが突然飛び込んで来た。
オレンジ色の中でキラキラと光る、眩しい笑顔。
俺の好きな、俺の一番好きなあの笑顔がそこにある。


「え……?空………う、うわ…っ!!!」
「あ、あきちゃんっ!!」

驚いたなんてもんじゃなかった。
あまりにも空のことを考え過ぎて、浮かれ過ぎて、可哀想な大人だと気の毒になった神様が俺に夢でも見せてくれたのかと思った。
俺は階段の途中で足を踏み外し、そのまま後ろに倒れてしまった。


「いって…、痛ぇ…!」

幸い俺は命は助かったものの、コンクリートの壁に思い切り頭をぶつけてしまった。
その瞬間有り得ないような大きな音がしたから、きっと後頭部には大きなたんこぶが出来ているに違いない。
こんなみっともない姿を空に見られたら…。
空に見られたら…。


「そ、空…?!」
「あ、あきちゃんっ、大丈夫?!」

夢にまで見た空が倒れた俺の上に跨って、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
俺と一緒になって階段を転がったらしい。
全身で感じる空の重みはまぎれもない本物だ。
今この場に空がいるということはまぎれもない真実だ…。


「パパの仕事が早く片付いて皆で帰って来て…、僕、あきちゃんを驚かせようと思ったの。」
「うん…。お、驚いた……。」
「ご、ごめんねっ、やっぱり言えばよかったかも…!」
「そうだよもう…、行き違いになってたらどうするんだよ…。」

子供の悪戯がこれほどに嬉しかったことはない。
このことを考えている間、空の中には俺しかいなかったはずだ。
俺がどんな驚き方をするのか、どんな顔をするのか、空は楽しみだったはずだ。
そんな空のことを思うと、悪戯なんて笑って許せる。
ちょっとだけ憎らしくて生意気な部分さえ「可愛いことをしてくれる」なんて思ってしまう。


「ごめんなさいっ!あきちゃん、怒ってる?あきちゃ…。」
「空…。」

本当は「許さない」なんて言ってやりたかった。
わざと怒った振りをして、落ち込む空を見たかった。
お仕置きだって言って、色んなことを考えた。
だけどそれが出来ないのはわかっていた。
こうしてすぐ傍で空の顔を見たら、俺の中に急に愛しさが込み上げて、溢れて止まらなくなるから。


「あきちゃ……んっ、んー…っ!んっ、あきちゃんっ、苦し……っ。」
「空…、おかえり。」

溢れる言葉を上手く整理出来なくて、代わりにキスで伝えた。
5年振りの、空とのキス。
甘くて柔らかくて蕩けそうになる唇も、激しさに応えきれなくて漏れる息も、みんな好きだ。
空の何もかもが好きで好きで堪らない。
この5年間、それだけで俺は生きてきた。
こうして抱き締めてキスをして、「おかえり」を言うために。


「あきちゃんー…。」
「おかえり、空。」
「うんっ!ただいま!ただいま、あきちゃん!あきちゃんー!」
「うん、おかえり。おかえり、空。」

落ち込んでいた空もすぐに笑顔を見せてくれた。
随分大人っぽくなったけれど、その純粋な笑顔は変わっていない。
俺にしがみついてくる身体は大きくなっても、その中身は変わらないのと同じだ。
俺が5年間待っていたように、空も待っていてくれた。
それが俺の思い込みじゃないことは、空の笑顔やきつい抱擁が証明してくれている。
俺達はここが階段だということも忘れて、5年分のキスをした。


「あきちゃん…なんか前と違う…。ちゅーする時…。」
「目線がってことだろ?」

キスの合間に、空が不思議そうな表情を浮かべている。
その表情をする顔の位置が、俺との距離が前と違うことに気付いたのだ。


「あ、そう!そうなの。なんか違うの。あきちゃんちっちゃくなった?」
「ぷ…!違うよ、空が大きくなったってことだろ?」
「え?!あ、あ…そっかぁ!そうなんだ…そっかぁー…。」
「そうだよ。」

空は自分の手を広げたりして、自分の成長を確かめていた。
俺よりはまだ小さいけれど、本当に空の背は伸びたし重くなった。
前は幼稚園でも小学校でも一番前かそれに近かったけれど、今はどれぐらいだろう。
真ん中ぐらいにはなっただろうか。
そういうところは叔父の気分が抜けなくて、歯痒くてくすぐったい気持ちになる。


「空、部屋に行こうか。ここじゃあ…な…?」
「あきちゃんー…。」

耳元でそう囁くと、俺を見つめる空の目が潤んでいる。
恥ずかしそうに顔を赤くしているところから、俺の言いたいことは伝わっているのだと確信した。
この続きを、早くその成長した身体を抱きたいという思いが。


「そらちゃあーん、なにやってるのー?」
「……え?」
「……あ…、あきちゃんあのね…!」

俺の中で空に対する欲情が盛り上がってきたところを、甲高い声が遮った。
聞いたことのないその声と同時に、ぱたぱたと走って来る音がする。
階段の上を見上げると、そこには小さな女の子が立っていた。


「んもう。れでーをまたせるなんてさいてーなおとこがするのよっ!おんなのこにもてないんだから!」
「な、七海…。そういう言葉どこで覚えてくるの?」
「あ、そちらがあきおおじちゃまね?」
「あ…、君は…七海ちゃん?空の妹だよな…?」
「そぉよ、ななみよ。うんと、えっと、ひごろはあにがたいへんおせわになってましゅ。」
「い、いや…。」

よく見るとその女の子は空にそっくりで、一目で空の妹の七海だということはわかった。
おまけに口が達者なところは母親そっくりだ。
俺はこの七海とは生まれてから会ったことがなかったのだが、初めての対面がこんな時だなんて…。
いくら良いことがあっても、そうそうすべて味方はしてくれないということだ。


「おじちゃま、ななみのどがかわいちゃったの。はやくおうちにはいりたいの。」
「あ…ごめんごめん、今行く。ほら空も立って。」
「はーい…。」

隣で立ち上がる空からは笑顔が消えていた。
そんな空を見て、そして初めて会ったこの姪に対して、俺はなぜか不安を覚えた。
会えなかった5年間を越えたこの恋に何かが起きるのではないかと。
だけどその不安を顔には出すわけにはいかなかった。
俺が不安になれば空も不安になる。
もともとこれは秘密の恋だ、これ以上空を不安にさせてはいけない。
俺は前よりも大きくなった空の手を取りながら、七海のいる階段の上まで上がった。







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