───ごめんね、ごめんね蒼…。
全部母さんが悪いのよ…‥。
違うよ、違う…。
記憶の中から、消えてゆく、母の声。
いくら手を伸ばしても、もう届かない。
違うんだ、母さんのせいじゃないよ、だからそんな顔しないで。
もう泣かないで、行かないで…。
お願いだから、行かないで、一人にしないで。
そう願っても、もう叶わないんだね。
「殿村くん…?殿村くん?」
爽やかな声が現実世界へと引き戻した。
クリーム色の壁に、今まで過ごした自宅よりも高い天井。
そうだった…、ここはあの家じゃないんだった。
「あ、ごめんなさい…、ちょっとボーっとしてました。」
髪を掻きながら、笑ってみせた。
心の奥底からではない、空笑いだ。
「君とね、同室の奴のことなんだけど…、その、まぁ簡単に言うと問題児っていうかね…」
案内をしている3年生の本城は、決まり悪そうに言葉を濁らせた。
問題児、か…。
なんだか久々に聞いた響きだな。
そんな人は周りにいなかったから。
「まったく…、いくら出席番号順とは言え先生方も何を考えてるんだか…‥。あ、それからね───。」
ブツブツと呟く本城の言葉をうわの空のように聞きながら歩いた。
殿村蒼、16歳。
家庭の事情により、本日からこの全寮制男子校に編入した。
以前まで通っていた都立高とは全く勝手が違う。
寮というのも、男子校というのも、人生初だ。
とにかく、過去は振り返らずに、頑張るんだ。
忘れたいわけでもないし、忘れられないけど、先に進むんだ。
そのために、こうして場所を変えたんだから。
そうだ、頑張らないと……。
ここに来るまで、着いてからも、何度も何度も自分に言い聞かせた言葉。
上辺だけでも言っていれば、実際そういう気持ちになると思ったから。
「あ、ここだよ、君の部屋。」
寮長である本城に案内されて、今日から自分が寝起きする部屋に着いた。
しかし問題児か…。
どんな人だろう。
うまくやっていければいいけど。
でもなぁ…。
一応名門金持ち学校なんだから、そうそう悪いこともできないと思うんだけど。
問題児、というあまりイメージのよくない単語が少しだけ脳内を巡っていた。
――――コンコン。
「西崎くん、入るよ。君と同室のコ、着いたから
。」
「あのっ、僕、今日からお世話になる殿村蒼って言います、えっとー…。」
ブワリと夜の冷たい風が部屋を駆け抜ける。
全開になった窓の青いカーテンがはためいている。
部屋の電気は一つも点いていなく、月の光だけが彼を照らしていた。
その月の光と同じ、黄金色に眩しく輝く髪と、
その風のように冷たい瞳と彼の手元…、
指先から白く揺らめく煙が、
ひどく幻想的光景を映し出していた。
あまり嗅いだことのない煙の匂いが立ち込めて、
まるでここだけ別世界になっているようだ。
こういうのを、綺麗、って言うんだろうか。
こういう人を、綺麗、って言うんだろうか。
「西崎くん!タバコは駄目だよ。火事でも起こしたら…。
いや、まだ君高校生なんだからさ。
先生見つかったらまたなんて言われるか――…。」
「いいじゃん、別に。で、誰それ?」
いつの間にかその彼の見惚れてしまっていた。
いやいや、男だから。
否定しながら首を振って、
意識をまた離れかかっていた現実世界に引き戻す。
「君と同室になる殿村蒼くんだよ。さっき着いてね。
まぁ君も高校からだけど、一年いるわけだから、色々と教えてあげてよ、ね?」
「ふぅーん、俺と同室、ね。よくそんなん許可したな。」
本城はあくまで穏やかだ。
優しそうな微笑みと、声色と、理想の先輩を絵に描いたような感じだ。
寮長という役職に就くぐらいだから、面倒見もよさそうだ。
それに比べて、その、西崎くん、は瞳と同じように言い放つ言葉が冷たい。
眼光が時々鋭く光って、夜の闇に反射して恐いぐらいだ。
「あ、こちら西崎葵くん。君と同じクラスだから。
うちは中学から入ってる生徒が大半なんだけど、
彼は去年の今頃高校から入って来てね。
わからないことは彼に聞いて。慣れるまで大変だと思うけど、俺も協力するからさ。」
その光を遮るように本城は穏やかな口調で二人の緊張を解く。
この場合緊張しているのは、自分だけかもしれないけど。
「あ、ハイ、ありがとうございます。えっとー、西崎くん…だっけ、
殿村蒼です。こ、これからよろしくね。」
「あぁ。」
素っ気無い返事。
こちらには視線も合わせない。
ただ夜の風に、その髪が靡く音だけがするような気がした。
「じゃあ俺はまだやることあるから行くね。」
「あ、色々とありがとうございました、本城さん。」
本城は少しだけ笑って手を上げて、
パタンと部屋の扉を静かな音をたてて行ってしまった。
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