「そらいろ-2nd period」-1




ベーコンの表面が焦げる香ばしい匂いと、スクランブルエッグの柔らかな匂い。
キッチン傍のダイニングテーブルからは、淹れたてのコーヒーの香り。
オーブントースターに入れたパンが焼ける音と、部屋の中を駆け回る足音。
腕捲りをしながら、それらを作り終えると、コーヒーをカップに注ぎ、もう一つはミルクと砂糖たっぷりのカフェオレにする。
カフェオレというか、ほとんどコーヒー牛乳だ。
それがオレンジジュースやただの牛乳になることもある。


「空、これ出来たからテーブルに持ってって。」
「はーい!」

俺とその甥っ子、空(そら)との生活は、忙しい朝から始まる。
空は俺の歳の離れた姉の子供で、その姉の旦那、つまりは俺の義兄がアメリカに転勤になり、
空だけがどうしても外国には行きたくないと言ったことから俺達の生活は始まった。
予定では空は実家に預けられることになっていた。
もちろん実家の母親も父親も、孫と一緒に暮らせると大喜びだったらしい。
しかし家にいて面倒を見る母親が、腰を痛めて入院したため、退院までの二週間だけ俺が預かることになったのだった。
その後は実家へ連れて行くはずで、空の元の家にあった荷物も全部実家に送っていた。
それが一転、そのまま俺のところで暮らすことになったのだ。


「急げよ、今日花の当番とか言ってただろ。」
「うんっ。いただきます!」

あれから五年。
長くても三年で帰って来ると聞いていた姉夫婦は、一向に帰ってくる気配がない。
どうやら義兄が向こうで仕事をバリバリやってくれたお陰で、その才能を認められているらしい。
姉も姉で、あれだけ空のことを溺愛していたのにも関わらず、今では時々電話で話すぐらいだ。
日本に帰って来るのは年に一度あるかないかというぐらいで、帰って来た時はもちろん溺愛っぷりを発揮しているけれど。
いつも帰国した際は空への土産だのなんだの、抱えきれないぐらいの荷物だから。
だけど話を聞いている分には、よほど向こうの生活が合っているのだろう。
今では姉も向こうで空いた時間を利用して雑貨や何かのショップで働いているらしい。


「あきちゃん、今日はお仕事何時に終わるの?」

大学生だった俺は、普通に大学を卒業して、普通に就職を果たした。
決して一流だとか大手だとかいう企業でもないけれど、二人で食べていくのには十分だった。
当時住んでいた狭いマンションも、なんとか一昨年1LDKの部屋に引っ越すことが出来た。
養育費だと言って姉からもらっていた金も、去年には断ち切った。
それはもしかしたら、姉や義兄、それから親に対する罪悪感からかもしれないけれど。


「多分そんなに遅くはないと思うけど…。でももしかしたら残業になるかもしれないな…。」
「そっかぁ…。」

幼稚園児だった空も、今年五年生になった。
小さかった身体も随分大きくなったし、話すことも変わって来た。
幼稚園の名前が入った黄色い鞄も、俺が金をはたいて買ったランドセルに変わった。
自分のことを「空」の音読みで「くー」と呼んでいたけれど、それもほとんど呼ばなくなった。
子供の成長というのは早いというのを、俺は目の前で見て来た。
それは嬉しくもあり、寂しくもあり、言ってみれば父親の気分のようなものだった。
見ている俺はと言うと、あの時は料理なんてちっとも出来なかったのが、今ではほとんど毎食きちんと作っているような状態だ。
空が幼稚園の時にはあんなに苦労した弁当作りも、給食に変わったために今では時々遠足なんかに持って行くぐらいで、それも随分と作るのに時間がかからなくなった。
こんな風に日々変化していく中で、ただ一つ、五年前から変わらないものがある。


「ごめんな、寂しい思いさせて。」
「ううんっ、大丈夫だよ、あきちゃんはお仕事なんだもんね。」
「空はえらいな。」
「えへへ、あきちゃーん。」

斜め向かいに座った空の頭に手を伸ばす。
柔らかい髪を掌で撫でて、頬に触れてそのまま顎を引き寄せる。
変わらないものは、俺達の関係だ。
あの時空が実家へ行くのを嫌がった理由。
実家に行っても俺がいないから。
ずっと俺と一緒にいたいと駄々を捏ねて泣いた。
何度も繰り返す「だいすき」が、恋の意味だとはあの時の空はわかっていなかったと思う。
ここ何年かで少しずつその意味も知って、その意味でも成長して来たのだ。
意味は変わって来ても、俺達の関係はお互い「だいすき」ということは変わりなく続いていた。
空の景色が変わっても、その色は褪せないみたいに。


「空…、またいっぱい付けてる。」
「あきちゃ…っ、ん…ふ…っ、遅刻しちゃうよ…ぉっ。」
「うん…。」
「あきちゃん…っ。」

時間がない時に限ってこういうことをしたくなるんだ。
パンに塗ったジャムとバターをべっとりくっ付けた空の口元を舌先で丁寧に舐め取る。
いちごの甘酸っぱいのと、バターの濃厚な香りが鼻を掠めた後、その味が自分の口いっぱいに広がった。
息苦しくなって、キスの合間に漏れる空の声まで甘酸っぱい。


「ごめん…。」
「ううん、あのね、くー嬉しいの…。」

ほとんど呼ばなくなった「くー」という呼び名が出る時は、空が甘える時。
それから嬉しい時、俺を好きだと心から訴えたい時。
これが間違いなく恋だと空が言ってくれているような気がして、俺はあの時よりも溺れてしまっていた。
周りには決して言えない、叔父と甥という関係の中での秘密だ。
罪悪感と幸福感の間で戸惑いながらも溺れていく日々が、今は何よりも大事だ。


「うわ、マジで急がないとまずいぞ空。」
「あきちゃんあきちゃんっ、ネクタイ忘れてるよー!」
「いいっ、持って電車でする!」
「はいっ、これ!これでいいよね?」

結局時間がなくなって、俺達はいつもこんな状態だ。
玄関で二人ぎゅうぎゅうになりながら並んで、靴を履く。
今は履けなくなったあの時の水色の靴と同じ色のスニーカーと、カジュアルな靴と一緒に革靴がいつも並んでいる。
後ろには会社用の鞄と、ランドセル。
そして空から受け取ったネクタイを握り締めながら、薄暗い玄関で一度顔を見合わせる。


「行って来ます。」
「うんっ、えへへっ、行って来ます。」

毎朝こうして軽く触れるだけのキスを交わす。
ネクタイ結ぶ時間はなくてもキスする時間はあるなんて、矛盾しているけれど。
違う、ネクタイ結ぶ時間も捨ててでも、少しでも長く少しでも多くキスをしていたいんだ。
離れる唇を惜しみながら、俺達は一緒に玄関のドアを開いた。








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