「永久性微熱3─灼熱」-1







「じゃあ、元気でね。」

そう言って、蛍が出て行った。
18年間過ごしたこの家から、そのうち16年間傍にいた自分の前から。
でもそれは蛍が考えた二人のためであって、これからはもっと心が近付ける気がした。
大丈夫、週に一度は二人きりになれる。
蛍が嬉しそうに笑った顔を思い出しながら、この週末だけを楽しみに待つ、それが椿の最近の日課になっていた。


「あ、椿、これ持っていって。」

勉強がそれほどできないということがこれほどありがたいと思ったことはない。
自分もいずれは大学に行きたいから、塾に行ったらお金もかかるし、
そんな言い訳を並べて、週に一度、蛍のもとへ勉強を教えてもらいに、という名目で会いに行くことができることになった。


「え…、兄ちゃんそんなのいらないだろ。」

台所にいた母親に、何やら惣菜を手渡され、同時にズキリ、と胸が痛くなる。
二人でいる時以外の一般的な呼び名が、いつもなら大丈夫なのに、蛍がこの家にいないというだけで、
どうしてこんなに辛くなるんだろう。


「そうかしら…、でもせっかくだし。」
「あ…うん、そうだなせっかくだしな…。」

そのせっかくの母親の好意まで踏み躙りそうになるほど、身体中が蛍不足になっていた。
何杯水を飲んでも乾燥しているみたいに。
なんて自分勝手なんだ、悪いことしてるのは、俺なのに…。
ごめん、母さん…、胸の中で謝罪しながら、 渡された包みを受け取った。


「しっかりね、蛍によろしくね。」
「わかってるって、行って来ます。」

一体何に対してわかってる、なんて言ったのか。
それからはもう、蛍に会いたい一心で、目的地へ急いだ。

自宅から歩いて電車で駅4つ、乗り換えて駅3つ。
そこから歩いて10分。
時間にして40〜50分程度なのに、ひどく長く感じた。
会えるとわかると気持ちは逸り、いつの間にか途中から走って向かっていた。


「椿…久し振り、って、そんな経ってないか…。」

インターフォンを押して、そこから穏やかな声が流れて、ドアを開けると現実の声が耳に沁みた。
その声の高さ、表情、話し方まで、変わってない。
蛍の言う通り、実際はそんなに経ってないから当たり前だけど。


「どうしたの?」

何も言わずに、その細い身体を抱き締める。
玄関のドアを閉めたらそこはもう二人の世界で、感触で蛍をを確かめたくて。


「そんな息切らして、大丈夫?」

呆れたように笑った蛍の胸の辺りが僅かに動いた。
しなやかな筋肉が、自分の頬に当たって心地いい。
玄関の段差がまるで蛍を年上とでも表しているかのように、子供をあやすように椿の髪が撫でられた。


「大丈夫じゃ…なかった…。」

まだ整わない息を切らしながら、蛍の顔を見つめる。
その頬が柔らかに紅く染まって、髪を撫でる手に力が込められる。


「俺も、大丈夫じゃなかった…。」
「蛍、会いたかった…。」

閉じられた蛍の瞼に静かに唇で触れた。
頬と唇にもキスを落として、もう一度強く抱き締めた。








「ごめんね、こんなのしかできなくて。」

夕飯時、ダイニングテーブルには鶏のささ身のサラダが出された。
面倒だから野菜も肉も一緒のものをよく食べる、と言っていた蛍が自ら作ったものだ。
食べ盛りの椿には確かに物足りないかもしれなくて、母親が惣菜を持たせてくれたのは正解だったかもしれない。


「わ…、母さんの肉じゃが、俺好きなんだ。」

知ってるよ、お前が何を好きで何を嫌いなのかぐらい。
ずっと一緒にテーブル囲んでたんだ。
電子レンジでそれを温め、二人で席に着いた。


「いただきます。」

いつもはやらないが、礼儀正しく手を合わせる。
蛍も同時に合わせて、箸でそれらを突いた。


「なんだか、新婚さんみたい…。」
「え?」

ほとんど無言で食べていると、つけていただけのテレビの音に掻き消されそうなぐらいの声で蛍が呟く。


「…あ、なんでもな…。」
「聞こえた。」
「え…。」
「…みたいだな。」

真っ赤になって俯いた蛍はそれ以上何も言わなくなって、そこにはただテレビの音が流れていた。
心臓の音が聞こえなくて、よかったと思う。







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