「黒揚羽」





あの空へ、羽ばたきたいと願う。
月の輝く、美しい夜の空へと。
私に綺麗な羽があるのなら。

お前の羽をくれないか。
私に綺麗な模様の羽を付けておくれ。
お前のいのちを、くれないか。



山の奥へ行ってはいけないよ。
山のものを取ってはいけないよ。
祖母から何度も聞かされた、山の妖かしの話。
そこに触れてはいけないと、大人達は皆口を揃えて子供に聞かせた。


「揚羽、山の奥へは…。」
「わかってるよ、お婆ちゃん。」
「揚羽、山へ行くのか?駄目だぞ、山のものを取ったりしちゃ。」
「わかってるよ、暁。」

今日も、祖母は口煩く注意をする。
隣の家屋に住んでいる、暁という少年までもが言う。
年の頃15、黒く美しい髪と瞳を持つ少女揚羽は、鬱陶しそうに祖母と暁の言葉を遮った。
祖母からもらった櫛を髪に飾った揚羽は、家屋の裏手から、山へ入って行った。

山は不思議な魅力を持つ。
ざわめく植物や小さな動物の生きる音が、耳の奥で木霊するのだ。
その音は我を捉えて離さず、いつしか虜にさせるのだ。


「…何これ。おまえ、何だ?」

どれ位歩いた頃だろう。
既に空は紺碧に染まり、紅い紅い三日月が顔を出している。
迷ったのか…?
見覚えのない路に、恐怖で心臓が大きく跳ねる。
ふと足元を見ると、小さな黒いものが、青々とした葉に止まっている。
見たことのない、幼虫…、蛹か…、いや蝶々だ…。
真っ黒で、羽の至極短い、何もない蝶々。
羽ばたこうとしても、飛べない蝶々。
こちらを凝視するような、その目が恐ろしい。


「気持ち悪い…。」

その黒の黒さに、吐き気をもよおした。
同時に、それを抹殺したいという欲望に駆られた。
世の中は、綺麗なものだけあればいい。
綺麗でないものなど要らない。

…お前の羽をくれないか。…

鼓膜まで響く、不気味な声。
山の奥から聞こえるその声は、この蝶々が発しているとでも言うのか。

…私に綺麗な模様の羽を付けておくれ。…

綺麗な羽などわたしは持っていない。
綺麗な羽がないならば、果ててしまえばいい。
空を飛べない蝶々ならば、この世に生きる意味などない。
無意識に、揚羽の手が、黒い蝶々の短い羽をぐしゃりと毟った。
髪に飾っていた櫛が落ちる、からりという音だけが山中に響いた。

…お前のいのちを、くれないか。 …


その日から、揚羽の姿を見たものはいない。
山へ探しに行った暁が、揚羽の櫛だけを見つけた。
その櫛の端に、見たこともない蝶々が止まっている。
大きな羽に、小さな紅い三日月が散らされた、黒い蝶々。
その黒色は、揚羽の瞳と髪の色と同じ色。


「揚羽…お前…。」

そっと蝶々を摘んで手の甲に乗せる。
頷くようにゆらゆらと美しい羽を揺らす蝶々に、暁の視界が歪む。

綺麗な綺麗な揚羽。
黒い黒い揚羽。
蝶々に飲まれた揚羽。

暁の涙に気付いたかのように、揚羽は、嬉しそうに空を飛んで行った。








それから幾年もの時が流れた。
あの黒い蝶々は、今でも街中を知らない振りをして飛んでいる。
世は不吉なものとして、忌み嫌っている。


「黒揚羽!気持ち悪いー。」

そう、この時を待っていたのだ。
もっともっと綺麗な模様の羽を、わたしにおくれ。


「こんなのいなくていいのに。」

そうだ、そうしてわたしの羽を毟るといい。
一瞬にして、殺ってしまえ。


「…あ、何……、眩暈が…。」
「アゲハーどうしたのー?」

おまえのいのちをくれないか。
おまえのいのちをくれないか。
おまえのその綺麗な瞳も髪も涙も、わたしにくれるといい。
おまえのいのちを寄越せえぇ───…!!


「────キャアアァ──…。」

わたしは空へと、羽ばたけるのだ。








END.







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