「ONLY」サイドストーリー「ONLY YOU」
あの人に初めて出会ったのは、まだ小学生の頃。
父の仕事場という、水島家に用事があって行った時のことだった。
「こんにちは。」
大きな階段の上から、その人、優香子さんは挨拶をして来た。
逆光でその姿がよく見えなくて、目を凝らした。
綺麗なピンク色に花柄の洋服が目に入って、その後すぐに眩しい笑顔が目に飛び込んで来た。
本当に、眩しい笑顔だと思った。
「こんにちは。」
「あ…、こんにちは…。」
思わず見惚れてしまっていた。
階段を下りて傍に来るまで、挨拶することも忘れるぐらい。
近くで見てわかった大きな瞳や白い肌が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
自分よりも二つ年上の優香子さんは、この家の長女だった。
妹の理香子さんとは違って、幼い頃から病気がちだったらしい。
自分と知り合ってからも、学校の出席日数も足りなくなりそうなこともあった。
当然外に遊びに行くことなんてできなくて、ほとんど家に籠もった生活を強いられていた。
「また来てくれる?また一緒に遊んでくれる?」
「うん、また来る。」
初めて会った時、優香子さんは、寂しそうにそう言った。
だからその時からずっと、毎日のように訪ねた。
父親がこの家に信頼されていたから、怪しまれることはまずなかった。
あの寂しい声と表情が、可哀想だと思ったから。
それからそれ以上に、優香子さんに会いたかったから。
それが恋だということに気付くのに、時間はかからなかった。
だけどどうしても、その思いを告げることはできなかった。
それが劇的に変化を遂げたのは、自分が高校生、優香子さんが成人する前の年だった。
「あたしの夢はね、好きな人と一緒になること。」
「優香子さんなら、きっと素敵な人が現れますよ。」
何気なく言ったその言葉に、優香子さんの表情が曇った。
病気がちでも何でも、いつも笑顔だったのに、初めて見る暗い表情だった。
いつも部屋に飾ってある綺麗な真っ白い百合の花が、バラバラと散って行くみたいだった。
「あなたはなってはくれないの?」
優香子さんの涙を見た時、一瞬にして何もかもがどうでもよくなった。
世間体だとか、父親の仕事だとか、自分がまだ高校生だとか。
自分の恋を邪魔していた何もかもが、どうでもよくなった。
いや、それは言い訳で、ただ単に勇気がなかっただけかもしれない。
一度行動に出てしまうと、恐いものなんて何もなかった。
ただひたすらに優香子さんと愛し合うことだけ考えていられた。
優香子さんの中に、新しい生命ができるまでは。
「本当に申し訳ありませんでした。」
謝ることしかできなかった自分を、優香子さんは責めることはしなかった。
それどころか、危険を承知で産みたいと言い出した時には、情けないことにどうしていいかわからなくなった。
高校を卒業したら、大学に通いながらこの家で父と同じく雇われる予定になっていた。
それも全部駄目になるのも仕方がない、それどころかどんな仕打ちをされても仕方がない、
そう覚悟をして、優香子さんの母親、つまりは奥様に相談をしたのだった。
自分が相談をする前に、既に優香子さんはその話を打ち明けていた。
しかも、もう決めたから止めないでくれと念押ししたらしい。
奥様も最初はやっぱり止めたけれど、優香子さんの意思は固かった。
幼い頃から閉じ込めて好きなことさえさせてやれなかったから、せめて今やりたいことをさせてやりたいと、奥様は悲しく言った。
それでも優香子さんを守りたかった。
どうか、無事であるようにと。
生まれて来る子供を優香子さんがあの笑顔で抱けるようにと祈り続けた。
「誠に残念ですが…。」
その祈りは通じることはなかった。
誕生の直後に笑顔を見ることはできたけれど、優香子さんは自分の子供を抱くことはできなかった。
呆然と立ち尽くす病室の中、その子供の産声だけが響いていた。
あれからもう20年以上が過ぎた。
優香子さんや奥様が言ってくれた言葉の意味が、やっとわかった気がした。
それは、その時の子供の幸せそうな姿を見ることができたからだ。
「優香子さんにも…、今のあなたを見せたかったです…。」
ふと洩らしてしまった言葉に、あなたは気付いたでしょうね。
優香子さんに似たあなたなら、きっと。
これから何年後、何十年後、いつになるかはわからない。
だけどきっと、自分も優香子さんのところへ行く日が来る。
それまでどうか、優香子さんと自分の子供が幸せであるように。
もう一度自分を見つめ直すため、そんな格好つけた言い訳を考えた。
奥様へは書き置きだけして、水島の家を後にした。
あの時心の中で散ってしまった真っ白い百合の花束を、墓石に供えた。
春の穏やかな風が、その花の香りを運ぶ。
「隼人ー、お母さんのお墓こっちみたいだよー。」
明るい少年の声がして、優香子さんの前から立ち去った。
あの傍にいる少年の笑顔は、初めて見た時の優香子さんみたいだと思った。
「あれー?隼人ー、おっきい花があるよー?」
「さぁ…、誰かが置いて行ったんだろ。」
優香子さん、見えますか。
END.
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